シベリア抑留 未完の悲劇を読んだ

ソ連軍は、北と東西の三方から国境超えてなだれ込んできた

兵員およそ160万人、戦車は5000両、飛行機も5000機

四年前突如ソ連に攻め込んできたナチス・ドイツ軍さながら

の陸空一体となった電撃作戦であった

迎え撃つ 日本の精鋭?関東軍は兵員70万人、戦車は200両

飛行機200機 と 兵力差は25分の一以下

であり 満州居留民の悲劇は 誰にでもわかるはずだ

戦前 日本政府は 五族協和 王道楽土を歌い 満州への 入植を奨励美化した

スローガンは「右手に鍬、左手に銃」

当時の日本人居留民は 無敵の関東軍 泣く子も黙る関東軍が そばいて

民衆を守ってくれると信じ込んでいた ソ連が 進行してきても

だれも 財産を 放り投げて 逃げようなどと 思う人は 少なかった

そこにも 悲劇が 起きる要素が あった

ソ連は、あるいはスターリンは、なぜ日本人を抑留したのか

まず背景として知っておくべきは、帝政ロシアにまでさかのぼる

この国の強制労働依存体質だろう シベリアはロシアの流刑地であり

囚人らによる強制労働によって開発されていった それは 革命後

スターリンにも継承された さらに 1945年 ソ連は自らがいう

ドイツとの「大祖国戦争」に勝利したものの 2000万人とも3000万人

ともされる 膨大な犠牲者を出した 復興に必要な 労働力不足を埋めようと考えた

フランクリン・ルーズベルト大統領は 日本の早期降伏にはソ連軍の参戦は

有力なカードであった チャーチルも交えた 45年2月4日の「ヤルタ会談」

では、対日参戦の見返りとして。南樺太、千島列島の帰属をソ連とすることで

合意している また 抑留は戦後復興を確保するためで 対日参戦前から決まっていた

それは 終戦後、ソ連によって 強制抑留された日本人は日本政府の推計によれば

およそ 57万5000人である

抑留から 帰還する方もいるが ソ連にたというだけで アカ というレッテルを張られ

就職ままならい シベリア抑留 は この数十万人の命 人生を 台無しにした

1945年7月 日本政府は近衛文麿をソ連に派遣する準備を進めていた これにともない

この絵が準備していたのが「和平交渉の要綱」である

要綱は「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること」と国体=天皇制の護持を前提としたうえで

ソ連との交渉の方針を定めた この中で 特に注目すべきは「海外にある軍隊は現地に於いて復員し

内地に帰還せしむるにつとむるも やむを得ざれば 当分その若干を現地に残留せしむることに

同意す」 「賠償として 一部の労力を提供することは同意す」という 要綱が ソ連に伝わった

近衛が ソ連と交渉しようが しまいが これが ソ連の欲する 労働力と合致した

そして 戦争で 犠牲になるのは いつも 国民であり 為政者ではない

戦争をする前に 国民より先に 戦場に行って 機関銃で撃たれろ 岸田

お前が 戦場に 真っ先に行って 戦争をしろ その次は 国会議員だ その次は

国家公務員だ 順番は 国民が 一番先ではない

78年前まで 日本は 戦争を 日常のごとく 遂行していた

しかし 今度 戦争が 起きたら 日本は 滅びる いや 戦争で 世界が

滅びるだろう 決して シベリア抑留などという 悲惨な戦争は あってはならない

裁判所も 見放しているだろ 権力に しがみつくものは 戦争にはいかない

これがこのゴールデンウィークでの 結論である