銀納義民-3
歴史
義民名簿
図14-1.義民の姿
日本の他藩では、鎌、鍬、蓆旗を掲げた一揆や
打ち壊しが流行るなか、伊予西条藩のこの村では、
「非暴力」の話し合いに60年間もねばっていた。
徳川幕府の強さと非情さを理解する者がいたようだ。
図14-2.処刑
こんな小さな子でも男は将来、反乱の中心になると恐れたのか。
図14-3.処刑
女色と酒乱にふける三代目・一柳直興は2人の家老が自刃して諌めるのも聞き入れず、
銀納義民の首謀者一家6人(33歳、15歳、13歳、11歳、9歳、1歳)と
他の連帯責任者10人、合計16人も処刑した。
図15-1.義民名簿
上から通し番号、義民の地区、名前、法名。
①の徳馬は15歳で⑰の高橋平左衛門の息子。平左衛門は纏め役として生かされる。
②工藤治平衛が首謀者で33歳。息子5人が全員処刑される。
③同上長男15歳。利左衛門と書かれた文献もある。右と左の書き間違い?
④同上次男13歳。ここまでは法名が残っている。
⑤同上三男11歳。ここから法名も無い。
⑥同上四男9歳。この子がとても利発的だったらしい。
⑦同上五男1歳。乳飲み子で処刑直前まで父親に抱かれて泣いたと云う。
この子達の母親のことは、後日書きたい。
図15-2.義民名簿
⑮、⑯の黒瀬山には米は採れた。大保木山、中奥山に協力したものか。
ただ2人とも○○の家来となっているので、直訴行為で処刑される覚悟か。
1630年代に士農工商の身分制度が確立しており、1649年「慶安の御触書」
により農民の年貢(税金)は50%になった。
①~⑯までが処刑されたのは、1654年承応3年である。
⑰は西条市内氷見村庄屋から養子で来た人で、1677年・延宝5年3月10日病死で
享年62歳また65歳とも、とある。事件の時は39歳又は42歳で分別盛りだ。
この人が生き延びた理由は諸説あり面白いが、23年間の内初めの10年間で、
銀納制度を勝ち取る成果を上げている。
勿論、子孫は市内に現存され、とても謙虚な古武士風の社長だ。
図15-3.義民名簿
⑱の名前は左と右の書き間違いか?吉右衛門の文献もある。
最後の行に、⑰~㉘は「願済し致候人々」と簡潔に書かれている。
その意味は、「願い出て許可を頂き済」でしょう。
江戸時代には、殿様の方針に反する行為をして、切腹ではなく、
切り捨て(打首)になると、本人は元よりその一族も連座して、
人間扱いされず家畜同前になり、戸籍などから消されます。
「赤穂浪士」の切腹とは訳が違うのです。
お家制度・戸籍制度は、日本国が外国から宗教的に、思想的に侵略支配
されるのを防いだ効果もあったのだが。
「願済し致候」の主人(主語)は、今回の「銀納義民」では、
戸主や一族ではなく、恐らく旦那寺の和尚さん、又は産土神
(うぶすながみ、うぶのかみ)の神主さんでしょう。
村が5か村に分かれ、複数の姓氏だから氏神より大きな神社であろう。
話は変るが、全く別の古文書に、明治21年「願済改名」と云うのがあり、
願い出て改名された例です。
更に「願済廃嫡」とと云うのがあり、戸主が自ら願い出て、
嫡男としての権利つまり長男が家を継ぐことを拒否し、
次男を家を継ぐ子「嗣子」として定めたという実例があります。
今日の言論の自由との落差は極めて大きい。
所得税、消費税、固定資産税、自動車税等々を合計しても、
50%にはならないかと思うが。
(続く)