銀納義民-1
歴史
事件のあった場所
銀納義民のタイトルでHPやブログは既に多い。
しかし、未だ、350年しか経過してないので、
プライバシーを考慮したのか、どんな場所だのかの掘り下げが浅い。
>銀納義民350年祭の行事が11月16日にあったので、
その時の写真を少しご紹介する。
図01.案内看板(2枚)
10時開場だが早く着いた。昔の写真展を案内されたので覗いた。
会場は廃校になった中学の講堂なので、窓ガラスの光や天井の
蛍光灯が写真に写り込んで見苦しい。お許し乞う。
図02.江戸時代の民家(2枚)
左の茅葺入母屋屋根の妻飾に家紋が入っているのが自慢。
この家紋は、2012.09.22のブログでご紹介済み。今はキャンバスで全体をカバー
しているので妻飾は見えない。
右も古かったがトタン葺になり、台風被害もあったので現存するかは不明。
図03.茅葺と豆取作業
左の子達も50歳を越えているか?知らない家だ。
右は納屋の横で日向ぼっこしながら、小豆を脱穀?している。
図04.戦前の小学校と跡地
昔は国民学校と云った。疎開した僕はここの運動会で、
お弁当を食べた記憶がある。
跡地は杉林になり、イノシシの遊び場らしい。
全て無人の家になり、消えて行った村だ。
図5.銀納義民首謀者達の墓(2枚)
左は治兵衛さん。首謀者だったので問答無用で打ち首。
その男の子達も意味を解らないままで、役人も憐れみミカンを与えた。
打ち首にした切り口からミカンが出て来たという惨い記録がある。
右の高橋はなぜか脱獄出来て、更に10年を掛けて、後任藩主
松平から銀納を許可されるまで働いた。
税金は現在では貨幣による銀納が当たり前。
江戸時代は米などの物納だった。山村では米が少ないので、
町から購入して納めていた。
そこで数十年も掛けて銀納を申し出る「税制改革」を直訴したが、
西条藩三代目藩主・一柳直興(ナオオキ)は取上げず、切り捨てた。
後日、一柳は江戸幕府より取り潰し処分をうけた。
(続く)