藤原道長-1 | 先祖を尋ねて

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姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

藤原道長-1
系図・糖尿病

傲慢な平安中期の成功者


 藤原鎌足は重篤な病床で、藤原姓を賜ったことを自覚できない状態で
2,3日存命したきりと伝わる

藤原姓を堪能したのは、その子・不比等(淡海)及びその子・房前(北家)
だけである。しかも、北家の流だけが不比等に藤原姓を許された。


多過ぎては、区別できず不便という問題もあった。
当時の公家や庶民に「藤原姓」として崇めさせた悪者は、勿論
藤原道長である。
その系図を図1に示す。
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藤原道長系図.jpg
図1.道長周辺系図
 北家だから全て藤原氏で、師輔、伊尹、兼家、実資、及び
長男・道隆、三男・道兼、五男・道長が摂政関白になった。
別腹の次男・道綱、四男・道義は省略している。
姉妹2人・超子(冷泉天皇女御、三条天皇生母)及び
      詮子(円融天皇女御、一条天皇生母)も省略している。

ここで我々に重要なことが3つある

1つは、道長の政敵で常に批判的なスタンスの、フタイトコの
藤原実資である。彼の残した正確な記録「小右記」は、
道長の備忘録「御堂関白記」(「法成寺摂政記」とも呼ぶ)を補う。
昭和26年国宝、さらに2013年6月世界記憶遺産に登録された。

道長が権勢の絶頂期(寛仁2年(1018))に読んだ歌は:
 「この世をば わが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」
と伝わるが、「御堂関白記」には、[賜禄の儀の夜、和歌を詠んだ。
人々は和歌を詠唱した]としか記録されてない。


藤原実資の「小右記」には、その和歌と詠まれた経緯が細かく
書かれている。彼は、政敵・道長の揚げ足取りに集中していた様だ。

2つ目に重要なことは、図1に示した通り、道長の4人の娘は全て、
天皇の女御に娶らせて、道長が天皇の外戚となっている。
それで、長男の頼道(頼通)は52年間もの長期間、摂政関白の
地位を独占している。

3つ目は、糖尿病患者が伊尹、道隆、伊周、道長と4人もいる。
長男・道隆、三男・道兼の死因は天然痘である。
それで道長に絶好のチャンスがきたが、類まれな実力者だったことも間違いない。
糖尿病については、参考文献を含めて、明日詳しくのべる。
図1は再掲しないが、参考にするので宜しく。

藤原道長系図.jpg
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