松山商元監督の死去 | 先祖を尋ねて

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姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

松山商元監督の死去
スポーツ

同年齢の一色俊作氏


 愛媛って何県と質問される位の田舎。
ましてや、高校野球ファンでないかぎり松山商業高校が
野球に強くて甲子園を沸かせた県立高と知る人は少ないだろう。

愛媛県は地方の為、県立高校が中心になる。
一色俊作氏は76歳で、同年齢ながら比較にならない有名人。
4月24日午前5時頃、松山市道後湯之町の自宅で、虚血性心不全で
急死した。

23日には外出し、食事も良く進み問題なかったと言う。
有能な人が先に逝く。ご冥福をお祈りします。

先祖を尋ねて-一色俊作2先祖を尋ねて-一色俊作1
図1.現役の一色氏  図2.最近の一色氏

 氏は松山商業高、明治大学卒後、1961年上浮穴高(カミウケナコウ)の
野球部監督に就任。母校の松山商業のコーチを歴任。
63~74年の9年間で2度監督を務めた。

松山商業は愛媛は元より、四国内では常にトップの座にあり、
地方の野球レベル向上に尽くした。
66年の大分国体で初優勝。


特筆すべきは、1969年夏の甲子園大会で、青森県・三沢高校と
0-0の延長18回引き分け、翌日の再試合を4-2で優勝した。
この時、三沢高校の投手は太田幸司選手で、プロでも超有名に、
松山の投手は無名の選手だった。

それでも同校4度目の夏の優勝で、「野球王国愛媛」の礎を築いた。
その後、帝京第五高(私立)を経て、新田高(県立)で監督を務め、
90年の選抜大会で初出場準優勝に導き、「ミラクル新田」と言われた。

その後も県内高校で休みなく、指導を任され、母校の松山商業が
振るわないのを見かねて、若い監督を育てた。
その間の選手やコーチ、監督達の思い出話も沢山あるが割愛する。
高校野球は指導者で決まると思う。

指導や教育の方法が大切なのだ。