とてもショックでした。😢

フジコ・ヘミング。
今夜、25年前に放送された、彼女のドキュメンタリーが再放送されたので、見ました。
不思議な人。
頑固で負けず嫌いで、でもどこか可愛らしい部分もある。
孤高のピアニストでした。
一時期、傾倒していました。
でも、いつからか、彼女はもう大丈夫だ、と思った時から、あまり聞かなくなりました。

久しぶりで聴いた、フジコ・ヘミングのショパンやリスト。やはり。
胸を打ちました。

収録されたのは1999年の下北沢。
母親が遺した、広い家。
劇団の稽古場として、部屋を貸し、自分はピアノを教えて生計を立てていました。

フジコ・ヘミングは、第二次世界大戦前、ピアノ留学していた母とスウェーデン人で建築家だった父との間に生まれました。彼女が5歳の時、日本に帰国します。でも。2人は喧嘩ばかり。上手くいってなかったから、親戚をたらい回しにされた挙げ句、父は日本を去ってしまいます。事実上の離婚でした。

食べなくてはなりません。
母は、ピアノ教師となりました。
母は帰らず、フジコは一人ぼっちでした。

やがて、母は娘にピアノを教えます。
信じられないくらい厳しかった、そうです。泣いてもわめいても、稽古を止めない人でした。
母は、娘をヨーロッパで活躍させる為、留学させます。ただ。
フジコはスウェーデン国籍でした。
日本国籍ではなかった為にパスポートが取れない。スウェーデン大使館にかけ合うと、難民申請すれば良い、と。
フジコは、国籍を剥奪され、難民としてヨーロッパに渡ります。

それでも素晴らしいピアニストだったフジコ・ヘミング。彼女を見初めた人が。
バーンスタインでした。彼は会うと、すぐ弾くようにと。聴いた後、歓喜の言葉とハグ。彼女は認められたのです。
そして、リサイタルの計画。

でも。当時、フジコは貧しかった。家賃の低い部屋にいた為か、風邪をひき高熱。なのに医者にも行くお金はありませんでした。それがリサイタル前夜。
彼女は高熱の為、耳が聴こえなくなり。
リサイタルは全てキャンセル。
3年間治療に専念。それでも、左耳40%のみの快復。彼女は、夢を諦め、ヨーロッパをピアノ教師として、渡り歩きます。

2度と戻らないつもりだった日本。
でしたが、1995年に母親が死去。
フジコ・ヘミングは帰国しました。
母が遺した家で、9匹の猫と、暮らすように。そこに、音大時代の友人が、演奏会をしないか、と。迷いましたが。
母校の小さなホールで、フジコ・ヘミングは復活。
収録の時は2回目。
立ち見が出る盛況ぶりでした。

この放送がきっかけで、フジコ・ヘミングは、凱旋リサイタルの為、各国を回ります。

それでも、猫と暮らし、ピアノに向かう日々は止めませんでした。

見た当時はラ・カンパネラに惹かれましたが、今回改めて見て聴いて、ベートーヴェンの月光が、彼女に合ってる気がしました。

どんな時も、ピアノを離さなかった、
孤高のピアニスト。
それが

フジコ・ヘミング
でした。

御冥福をお祈りいたします。😢😢