お別れしなければならないのは何も人だけでない。

 

ときには思い出の詰まった「服」とも別れなければならない時が来る。

 

やがて来る帰国に向けて現在、着々と身辺整理をしているのだが、わずか2年のオランダ生活でずいぶんと物が増えてしまったようだ。

 

我が夫は企業の駐在員ではない。

ポスドクで大学に雇用されており、留学生的な立場でこちらに来させてもらっているため、住居費、家族の渡航費、引っ越しにかかる費用など、諸々すべて自分たちで用意しなければならない。

 

だから高額なお金をかけて何箱も日本に荷物を送れないのだ。それがわかっているから、なるべく物を買わないように慎ましく生活してきたつもりだったが、その結果がこれである。

 

当初、夫婦あわせてスーツケースたった4台だけで初めてこの街にやって来た時にくらべ、明らかに増えている。

 

そういえばちょうど2年前の今ごろのことだ。

まだ住居も決まっておらず、駅前のスチューデント・ホテル(短期滞在用宿泊施設)暮らしをしていたころが懐かしい。

あの頃はこれから始まる海外生活に、期待と不安の入り混じった複雑な気持ちでホテルの窓から見慣れぬ街を見下ろしていたものだ。

 

けれど、見慣れない街はやがて見慣れた光景になり、非日常だった毎日が日常へと変わり、日本でどうやって生活していたのかおぼろげになるくらいここでの生活が長くなるうちに、ヨーロッパにしかないもの、日本では高額すぎてとても手に入れられないものなど、どうしても欲しいものが出てくる。

 

何をあきらめ何を持ち帰るのか、一つ一つのものとていねいに向き合う日々だった。

 

中でも、大幅に減らしようがあるのが「服」である。

生地が破けていたり、チャックが壊れていたり、安ものでヨレヨレだったり、明らかに存続困難なものは捨てやすいのだが、問題はそれ以外だ。

 

女性の服というのは、男性のように日常動作で擦れたり破れたりして、物理的に使うことができなくなるということはあまりない。

 

もうこれ以上、収納するスペースがないから。

いいなと思って買ったけど、1、2回袖を通しただけで、たんすのこやしになってしまっているから。

目まぐるしく変わる日本のトレンドを前に、いつまでも同じ服を着ていると置いてけぼりを食らい、周囲と浮くから捨てるのである。

 

今回、帰国ということで、思いっきり数を減らさなければとてもスーツケースに収まりきらないので、何着かは断腸の思いで手放さなければならない。

 

そのうちの一つが、2、3年前に流行ったユニクロのサーキュラースカートである。

 

オレンジよりも赤く、赤よりはオレンジがかった絶妙な色合いとシルエットが気に入って買った一着だった。

 

この色合いがまた底抜けに青く、どこまでも広がるヨーロッパの夏空に映えた。

まるで南ヨーロッパに降り注ぐ夏の太陽のような、そんなエネルギッシュな色合い。

 

私はこのスカートをはいて、色々なところに出かけたものだ。

 

あるときは、街路樹の木漏れ日が美しく差し込むパリの街を歩いた。

ベルギーの古都・ゲントでは、夏の強い日差しが降り注ぐ中にも、時折心地よくやってくる風がスカートの裾を優しく揺らした。

陶器の街・デルフトでは、日に照らされ一層鮮やかな色に染まったスカートを見つめながら、昼下がりのカフェを楽しんだ。

アムステルダム国立美術館前で、若いカップルに頼まれて写真を撮った際、女性から「nice skirt! I like it!」と褒めてもらったこともあったっけ。

 

そんな思い出が死ぬほど詰まった一着である。

けど、もう日本ではこの手のスカートをはいている人はもういない。

流行は確実に去ったのだ。

ヨーロッパで履き続ける限りはいいが、どうも日本の夏は一緒に越せそうにない。

 

お別れの時が来たようだ。

ほかにもっと持って帰らなければならないものがたくさんある。

 

今までありがとう。

 

私は静かにそのスカートをきれいなゴミ袋の中にそっと閉じ込めた。

もう二度と戻らない、素晴らしいたくさんの思い出とともに。

 

 

 

 

<本日の一枚>

しかし、ヨーロッパの空はどうしてこんなに印象深いのか・・・

来た時からずっとそう思っていた。

 

日本のように、電柱からのびる今にも絡まりそうな電線たちや、一体、最頂部はどこなのかと見上げる高層ビル群などはまるでなく、都会であっても遮るものが何もないヨーロッパの街の上空は、まさに「大空(たいくう)」と呼ぶにふさわしい。

 

実はヨーロッパの空が青く澄み、夕刻には濃いコントラストを描くのは、湿度が関係しているらしい。

湿度が低い夏のヨーロッパは、大気の透明度が上がるため、このような青を我々に見せるのだという。

一方、湿度が高い日本の空は、どうしても青い色や夕焼けの赤い色が薄まる。

“厄介な隣人”が大陸から飛ばしてくるPM2.5のせいで一層スモーキーになっている説もある。

 

私は今でもイタリアで見た、この世のものとは思えない「あの空」が忘れられない。

町全体が中世の時から時を刻むのを止めたフィレンツェ。

眼前に重々しく横たわった街を、今にも空が飲み込まんとしている。

 

もう一度、あの瞬間に浸りたい気がした私は、夢中でページをめくった。

私が見たフィレンツェが確かにそこにはあった。

“この街はいつだって光が降り注いでいる”

最近、なわとびにハマっている。

 

幼少のころ、学校でやったなつかしのなわとびだ。

 

あの頃は体がまだ軽かったから、得意だったあや跳びや二重跳びなんか「もうやめろ」言われるまで無限に飛び続けられたのに、今となっては普通の前跳びですら、気を抜いたら縄がすぐに足にひっかかる。

 

昔は息を吸うように自然にできていたことが、これほどまで退化しているとは・・・20年という時の流れは残酷である。

 

なんとか二重跳びが10回連続で続くようになってきたところで、ふと気が付いたことがある。

 

通りすがりの人々からやけに注目されるのだ。

 

視線が気になってできん。。。

 

どうもオランダでは、なわとびはあまりメジャーじゃないらしい。

存在はかろうじて知られていると思うが、乗馬やカヤックなど、これだけ多種多様なアクティビティが盛んに行われているこの国で、なわとびをしている人だけは見たことがない。

 

そういえば前、オランダにいた友人が言っていた。

オランダ人の前でちょっと二重跳びでもしたら、みな一様に、「おお!すげええ!!」と反応すると。

 

そんで試しにその友人が、今度はオランダ人に縄跳びをやらせてみたらしいのだが、フォームからして全然なってなかったらしい。

どうやら跳び方自体を知らないようだった。

ジムとかでよく見かける「ボクサーとび」的なのができない。

 

どうもこの国では水泳の科目は必須だが、「なわとび」は体育の項目には入っていないらしい。

 

なんてこった。

日本人なら、あれだけ小学校のときやらされる種目がないなんて(いや、本当のところはどうなんか知らんけど)。

 

ちなみに、水泳が必須なのは、オランダという国がその低い土地柄、長年水害に悩まされてきたことからきていると聞いたことがある。

いかなる水害が来ても、自力で泳いで生きのびれるようにということか。

 

もしオランダで泳げない人に出くわしたらそれはきっと別の国から来た人なのだろう。

 

まあ、なわとびにしても水泳にしても、子どものころに体に覚えさせておかなければ大人になってからではできない。

 

ウンチクはこれぐらいにして・・・私はなわとびの想定外の効用に気が付いた。

 

「ニクセン」が自然とできることに。

 

え?まってニクセン??なにそれ?

 

ニクセンとは、最近読んだ本の中で書かれていたオランダの言葉である。

 

「何もしないこと」もしくは「目的なしに何かをすること」

 

人は、あくせくしているときより、リラックスしているときのほうが欲しかった答えがなぜか浮かんでくるものである。

 

シャワーを浴びているときにアイデアがひらめく。

ソファーにごろんしているときに、「あ、そういえば」と、思い出す。

 

頭の中をぼーっとさせること。

そういう一見無駄に思えるが実はとても大事な時間がニクセンである。

 

素敵に手入れされたお庭やテラスで日向ぼっこしたり、心地よいインテリアに囲まれた住空間で読書したり、オランダ人は日々の生活にニクセンを上手に取り入れている。

 

日本でもヨガとかの瞑想ブームがあったが、それよりはもっと日常行為の延長上にあるイメージだ。

 

多忙を極め、息つくタイミングを忘れた日本人が、窓の外をボーっと最後に眺めたのはいつだろうか。

 

通勤時間はスマホをながめ、職場では昼休みも惜しんで仕事をし、就寝直後までまたスマホを眺めて情報の洪水に身を置く。

そんな時、ほんの少しの時間でいいからニクセンをすると、詰め込むだけ詰め込んでストレスフルになった頭の中をリセットしてくれるような効果があるという。

 

自然とともに生きてきた人間には本来、必要な時間である。

 

どうも私は、なわとびでニクセンができることが本日をもって判明した。

考えてみれば多動気味の私が、窓の外を眺めたり、読書や日向ぼっこしたりとじっとしていることを通して、急にニクセンできるはずがない。

 

こんな落ち着きのない奴は、なわとびこそ正義!!

 

ちなみにニクセンするタイミングは、何も跳んでいる瞬間ではない。

いい感じに息が上がってきて一旦跳ぶのをやめ、呼吸が落ち着いてきて再び跳び始めるまでの間に行うのである。

「行う」と言ったか、自然に「行える」のほうが正しい。

 

多分ニクセンって、やろうやろう!何時からはじめるぞ!みたいに意気込んでするものではないから、こういう自分にとって自然なタイミングでぼーっとできるのがいい。

 

しかし、アジア人への風当たりが強くなっている昨今、自らすすんで注目の的になるのはリスキーなので、ほどほどにしておこう。

もう少し裏庭の地面がフラットだったらよかったのに泣

 

 

<本日の一枚>

オランダにも老人ホームは存在するが、日本の施設よりおしゃれな気がする。

外からでは老人ホームって言われないと見分けがつかないぐらいだ。

 

今はロックダウン中ともあり、カフェテリアって言ったほうがしっくりくるぐらいおしゃれな食堂の屋外席は取り払われ、ご老人たちは各部屋についているテラス越しにしかお見かけしないが、以前はこんな天気のいい日なんかは、屋外席でニクセンする姿をよく見かけたものだ。

 

 

 

 

私はオランダやドイツなど、ゲルマン系の国々は、物質的に乏しい南米の国々やまだまだ発展途上のアフリカ諸国はともかく、どうも国家の成熟度に対して食のレベルが著しくついてきていない地域ではないかと思っている。


歴史的・宗教的な要因もあるとは思うが、国の豊かさのわりには食文化が育っていないというか、国家レベルであっても個人レベルであってもどうも料理に対する熱意が足りないというか、あるいは「旨味」を感じなくても満足できてしまう味覚の違いなのか、原因は色々あると思う。


かたや、「和食」としてユネスコ無形文化遺産に登録され、世界が認める一大食文化を築き上げた日本からすれば、真反対の彼らから学ぶべきことは失礼ながらあまりなく、こと食文化に関してはやはり日本をはじめ、断然アジア地域が優っていると、オランダ暮らしをしていて思わされる。

考えてみればアジアはどの国も独自の調味料(日本では味噌、タイではナンプラーなど味に奥行きをもたらすもの)が発達し、それだけでは飽き足らず、海の幸、山の幸、実にさまざまな食材を使ってひとつの料理を完成させる。

もちろんゲルマン系の国だって、よく使われる調味料として塩・胡椒とハーブがあるが、それだけでは味のバリエーションに限界がある。


冒頭から辛口なことを言ってしまったが、そんな彼らの料理でも、日本人が学ぶべき点があることを見つけた。

それは、誰が作ってもおおよそ見た目よく仕上がって味もそこそこイケるくせにかけてる時間や労力は限りなく少ないものを作るという点である。

え?それ、日本でもその概念あるやんと思われたアナタ。
違うのだ。根本的に。

この国の料理は、日本人が知ってる「ズボラさんでも美味しく作れる簡単料理♡」とか、「忙しい人でも自炊したい究極の時短料理」のようなタイトルのレシピ本で紹介されるような手法とは、アプローチが全く違う。

 

まさに、「目からウロコ」になるときがある。

日本で紹介されるものは、確かに時短で簡単そうに見えるが、やってみると意外と“落とし穴”があるものが多い。

本当に誰が作ってもそれになるかと言われると、ならないものも多いが、ここ、オランダでは、ほんまに誰が作っても見た目も味も大きくは外さないようなレシピが紹介されている。

日本のレシピでありがちなものとして、時短のためには第一に手順自体が少ないものが望ましいのに、「あらかじめお肉に下味をつけておいてから焼く」という旨が書かれていたり、「なすは切って水にさらしておく」とか、簡単なことだが地味にひと手間かかることが明記されていたりする。

 

ほかには、「全部の食材をボウルに放り込んでレンジでチンすればいい」とあるので、その通りにやってみたら案の定、ある食材には熱が通り過ぎていたり、ある食材は反対にまだ固かったりと、あまりうまくいかなかったりするし、第一、味も美味しくなかったりする。

 

「やっぱり手抜きしたらこんな程度にしかならないよね」となる。

ところがオランダではどうだろう。
いくら食に無気力な国とはいえ、こちらにもプロが書いたレシピ本は存在するので、試しにいくつか作ってみたらびっくり。
そんな“落とし穴的なもの”はないのだ。

正真正銘、誰が作ってもそれ以上でもないが、それ以下でもないレベル感には仕上がるようになっている。
なんという安定感。

例えば一見、手がかかりそうなアップルタルトでも、ダッチアップルタルトと呼ばれるものは日本人が知ってるアメリカンタイプとは異なり、手順が圧倒的に少ないことに気がつく。
切ったリンゴに砂糖を絡めるだけで、その時点では熱を加えずに、砂糖まぶしの生のリンゴをそのままタルト生地に敷き詰めてから一緒に焼くのである。
 

一方、日本で紹介されている簡単レシピのやり方として多いのは、「ボウルに切ったリンゴと砂糖を入れてレンジでチンしてコンポートを作ってからタルト生地に敷きつめて焼く」だ。
「鍋を使わないから洗い物がラクチン」などと書かれていたりするが、オランダのレシピだと鍋どころかボウルも使わないで済む。

そして両者の違いから最も驚くべき点は、いくら時短・簡単を目指すとはいえ、その料理を作るためには最低限通らなくてはいけないと思っていた工程までをもぶっ飛ばしてしまうのだ。

え?じゃあ、手がかかってない分、味は落ちるんでしょ?と思われるかもしれないが、そんなことは決してない。
焼き上がりは、とっても美味しいアップルタルトがオーブンから顔を出すのである。

手間をかけた料理こそ美味しい信仰の日本(実際、この考えはある程度あたってる)では考えられない事態である。

また、こんなこともある。
品数を作らないといけないのは大変だから、一品でたくさんの食材がとれる野菜炒めを作ろう!
とかいいながら、いざ料理しだすと調味料を混ぜ合わせる工程が発生したり、なんだかんだで時間がかかってしまう。

 

まあだから「創味シャンタン」のように、たった一つの調味料で完全な味を再現できる複合調味料が日本では人気なんだけど。

まあそれはおいといて、この国では「調味料を変更する」ことよりも、もっとぶっ飛ばすことを選ぶ。
それはオーブンを多用することである。


野菜や肉をテキトーな大きさに切って天板に広げて、上から塩胡椒してオリーブオイル回しかけてあとはオーブンにおまかせ!

この時、もちろん肉に下味なんてつけてないし、灰汁を抜くために野菜を水に晒したりと、下ごしらえ的なことは一切しない。
わずらわしい調味料類を混ぜ合わせたりする必要もない。

なのに、美味しく作れた野菜炒めに匹敵するぐらいには、手抜きのくせに見た目も豪華で味も美味しい仕上がりになる。

野菜炒めとは別のメニューを作ってしまうことになるが、当初の「一品で野菜がたくさんとれる」という目的には合致する。

彼らはオーブンが大好きだ。
日本人がピーマンの肉詰めをフライパンでせっせと焼いている時、オランダ人はオーブンに放り込んで他のことをしながら待っているのである。

こんな調子だから料理における“落とし穴的要素”がなく、雑にやってるくせに嬉しい裏切り(?)がある。

こういうレベル感で、ゲルマン系の料理というのは、日本でよく紹介される簡単料理・時短料理とは一線を画しているように思える。

 

とはいえ、日本だってかつてのやり方に甘んじてるわけではない。

 

ここ数年、日本のキッチン家電製品市場でもコンベクションオーブンが流行ったり、電気圧力鍋スロークッカーが人気となっているのも、既存のキッチン家電ツールだけでは手抜きなのにおいしいものを作るのには限界があるし、本当の意味で時短になっていないことに気が付いた消費者が出てきているからだと思う。

 

まあ、結局はカネで解決といってしまったら身も蓋もないし、これが時短でも簡単でも手抜きでもなんでもなく、料理とはそのようなものだと思っているゲルマンの当の本人たちは、日本人である私、一個人が彼らの料理についてこんなふうに捉えているなんて考えもしないのだろうが・・・

もちろん、上で挙げたオランダのぶっ飛び事例は、同じ食材でもオランダでとれたものや生産されたものを使ってるからそうなるのであって、日本で真似たとしても果たして同じようになるかどうかはわからない。
前提条件が違うことも考慮しなければならない。

条件が違うのは食材だけではない。
調理環境が異なる(アジアではオーブン料理は主流じゃないので、すべからくフライパンになるなど)とか、和食という本来、美味しく作るにはどうしても時間と手間のかかる料理を簡素化、時短化する無理さもあると思う。

でも、オランダ人たちのあっと驚く料理の仕方の中には、日本でも取り入れられるものもあるのでは?

上で紹介したダッチアップルタルトとピーマンの肉詰めなんかは日本でも再現性が高そうである。

外国に住み、その国の料理のやり方を知って、自分の中の常識が覆ったのはいうまでもない。
レシピ本というのは、その国の料理に対する常識や食のトレンドだけでなく、その時代に生きる人々の生活スタイルをも反映するからおもしろい。

 

日本でも食のグローバル化が進むにつれ、それまで和食と洋食と中華で占められていたページに、タイやベトナムなどのエスニック料理のレシピも当たり前に加わり、健康志向の高まりでアボカドブームが起こった時には、それに関連するレシピが多数世の中に出回った。

 

母親が大事に持っている昔のレシピ本などでは、専業主婦が当たり前だった時代、手間暇かけて作る「おふくろの味」的なものが多かったが、女性が働くようになり、キッチンに立つ時間が少なくなると「時短」「簡単」のキーワードが並ぶレシピ本が重宝されるようになった。

そして、こんな生活はもうたくさん!人間らしい生活がしたいと望む人が増えた時には、今までを揺り戻すように「今こそ、丁寧なくらし」志向が芽生え、時短・簡単に偏った家庭料理の世界に、「やっぱりちゃんとお出汁を取ろうよ」的な原点回帰レシピも登場している。

 

そうは言っても、相変わらず忙しい日本社会を反映するかの如く根強く流行っている時短(だけどおいしさも譲れない)料理・簡単(だけどおいしさも譲れない)料理の世界にも、海外からさらに核心をついた新たな光が差し込む時が来るかもしれないと一人思うのであった。

 

 

<本日の一枚>

1000ピースパズル第5弾は、セーヌ川から見上げるパリの光景である。

2年間のオランダ生活でパリには2回足を運んだが、エッフェル塔には一度も登っていない。

この塔は上るよりも、こうやって遠くからながめるほうが「自分は花の都・パリにいるのだなあ」と実感できる。

 

街を歩けばオランダとは圧倒的に豊かな食文化の差を見せつけられ、ああ、ここに住んでいたならどれだけ食に満たされたことかと、パリ駐在組をうらやましく感じたほどである。

 

もちろん、住むにはやっぱりオランダなのだが。