壱ノ型の続きで、桂川甫周屋敷跡に来ました。代々幕府の奥医師を務め著名な蘭方医を輩出しました。四代目甫周は通称で名前は国瑞(くにあきら)です。杉田玄白と「解体新書」の翻訳作業に参加しました。漂流民の大黒屋光太夫らがロシアから送還された時に、将軍家斉(いえなり)からの命で調査し「北槎聞略」を編んで献上しています。
築地に近づくと、築地小劇場跡の碑があります。小山内薫が1924年に創設しました。でも4年後の1928年に急逝します。この事を契機に分裂し、1940年に国民新劇場と名を変えましたが、1945年の東京大空襲で消失しました。
今はNTTデータ築地ビルとして使用されており、壁面に記念碑があるのみです。
今も昔も劇団で役を演じる楽しさは同じだったんだと思います。始めに立ち上がる方々には、ただただ尊敬しかありません。
皆さまご存知の築地本願寺に到着です。
発祥は1617年、京都の西本願寺の別院として浅草・横山町に建立されました。なので、「江戸浅草御堂」と呼ばれてました。しかし、1657年の明暦の大火で焼失し、その後の区画整理で八丁堀の海上を埋立し築き1679年に「築地御坊」と呼ばれて再建されました。
しかし、1923年の関東大震災で再び焼失してしまいます。この時に建築家の伊東忠太博士の設計で1934年に古代インド仏教様式の外観で落成しました。2014年には国の重要文化財として指定されました。
築地市場を横目に勝鬨橋方面へ進むと、軍艦操練所跡の看板があります。1857年に創設されましたけど、1864年に焼失し、近くの松平安芸守屋敷に仮移転しましたが、1866年に類焼し、現在の浜離宮庭園に移転しました。
工事中で写真は撮れませんでしたが、操練所跡には築地ホテル館が外国人向けに1868年に開業されました。でも、1872年の銀座大火で全焼してしまい再建されませんでした。
勝鬨橋の手前に、海軍経理学校の碑があります。築地には1932年に移転されてきました。築地は埋立地のせいか、軍艦とか海軍とか海に関係する碑が多いです。