「こっちよ」
エームがそう言って入り込んだのは、
『緑の乙女亭』の横にある、ひどく狭い路地だった。
「何してるのよ。こっちよ。こっち」
白い漆喰の壁に囲まれた、迷路のような狭い路地を、
右に曲がり、左に曲がり、エームは踊るような足取りで進んでいく。
イチは乱雑に置かれた木箱をよけ、
戸口を守る無愛想な犬の前を素早く通り過ぎ、
花が飾られた窓からじっとイチを見つめる老人に挨拶をした。
「こんにちは!」
時々立ち止まり、
頭の上に何本もかけられた物干し用のロープや、
そこに干されたズボンやシャツや、
そのさらに上にある細長く切り取られた青い空を見上げた。
「イチ。何してるのよ!こっちよ!」
エームはイチが立ち止まると、すぐに怒った。
「こんなところに店があるんですか?」
「いっぱいあるわよ」
確かに、この狭い路地には、意外なほど多くの店があった。
どの店も、小さかったが、必ず客が一人はいた。
大量の白い布が積まれた店では、店員らしい女が布を広げ、
値段が折り合わないのか、客と激しく言い争っていたし、
壁に一枚だけ鏡が張られた床屋では、
椅子に座って、うとうとと居眠りをしている老人の白い髪を、
同じくらい年取った老人が、危なげな手つきで切っていた。
イチは絵を描きたい衝動にかられながら、
それらの店の前を通り過ぎていった。
「ここよ」
エームが立ち止まったのは、小さな雑貨屋の前だった。
←前のページ
目次 登場人物
次のページ→