史跡探訪・健康ウォーキング、6の日行動 | とみの和憲 徒然ブログ Powered by Ameba

史跡探訪・健康ウォーキング、6の日行動

午前9時30分までに檀紙コミュニティセンターに集合し、檀紙地区保健委員会・檀紙地区地域おこし運営委員会・JA女性部共催の『史跡探訪・健康ウォーキング』に参加。
今年のコースは、檀紙コミュニティセンター→薬王寺の石燈籠→薬王寺→重仁親王廟→森池の石燈籠→金乘寺→八幡神社→檀紙コミュニティセンター。
以下、提供された資料の文章を借用。


○金毘羅奉納石燈籠ー薬王寺の石燈籠
自然石を使用し、火袋東面には「日」の形、西面には「月」の形を彫り、身石の南面に「金」の字と「文政己丑年」と刻してある 。
「文政己丑年」:文政12年(1829年)


○薬王寺
醫王山薬王寺と称し、本尊は薬師如来である。
言い伝えによると、 弘仁6年 (815年) 空海41歳の時四国巡礼の折りこの地に留まり薬師如来を刻まれ、一宇を建立し醫王山薬王寺と名付けたといわれている。後の代、万治年間に高松藩祖松平頼重公がこの地を訪れ、寺の縁起を聞き、寺を城下現在の宮脇町(香川大学経済学部東側)へ移すよう命じた。
この城下の寺は、昭和20年7月4日未明の高松空襲により堂宇・尊像ともに灰燼に帰した。



○重仁親王廟 (辨天神社)
*重仁親王 (1140年10月14日〜1162年2月13日) :崇徳天皇第一皇子。保元の乱(保元元年・1156年)に敗れた父崇徳帝は讃岐に流され、親王自身は仁和寺に入り出家し、同寺で亡くなられた。
一説によると仁和寺の僧となった重仁親王は、讃岐に流された父崇徳上皇を慕って讃岐を訪れ、その後薬王寺に入られ寺僧と共に起居されたといわれる。しかし親王、脳の病に罹り亡くなられたため境内に葬った。廟は表向きは辨天神社とし、お祀りしたといわれている。
後に薬王寺が高松藩主松平頼重公により高松城下に移された折り親王廟も、ともに移された。
旧跡には小祠を建ててお祀りしていたが、 大正2年に大字檀紙にあった9社を八幡神社に合祀したため辨天神社は廃社となった。
辨天神社祭神は重仁親王である。


○金毘羅奉納石燈籠ー森池の石燈籠

中央身石に「金毘羅奉燈」と刻まれ、火袋南面に「日」の形、北面に「月」の形を彫ってある。
薬王寺の石燈籠と比べると比較的新しい。



○金乘寺
正法山真光院金乘寺と言い、浄土真宗本願寺派に属し、本尊は阿弥陀如来である。
創建当初は天台宗で金乘院と号していた。後、応仁年間 (1467〜1469) に浄土真宗の寺となり、金乘寺と称した。
寛政5年(1793年) 3月14日夜出火し、本堂・庫裏等を消失。
寛政7年(1795年)4月本堂再建落慶。本堂南側の堀は、当時瓦土を採取した跡であるといわ れている。山門には棟札に "千時嘉永四辛亥年十一月五日” とある。(嘉永四年: 1851年)
平成になり仏閣全体に亘り大修理を行い、現在に至っている。 寛政7年に再建した時の本堂旧鬼瓦が本堂階段横に置かれている。
仏画師野生司香雪による大襖絵が有名である。
高松市新名所高松百景の一つに選ばれている。



金乘寺は富野家の旦那寺。


若住職さんからお寺の歴史についてご説明がありました。


若住職さんからのご説明後、次の予定があるため中座させて頂きました。
なお、ご参加の皆さんはこの後、檀紙町の八幡神社に向かわれました。
〇八幡神社
旧檀紙村にあった神社9社(一説には伊勢神社を除いて8社) のうちの1社。その9社とは、 檀紙(紙漉)・中森・若宮・伊勢(若宮の境外末社) ・大将軍・八幡・神ノ木・辯天・薬王寺。
明治39年勅令220号により一村1社とするよう神社合併が推進され、地区においても八幡神社に合併することとした。大正元年10月23日出願、同2年1月18日許可となり、 既存の8社は廃社となり新しく八幡神社となった。 
祭神:応神天皇(旧八幡神社の祭神)
合併祭神:天照大神・御年神・天児屋命・宇邇若郎子命・言代主命・重仁親王

正午までに田町警備派出所前へ移動し、香川革新懇「6日行動」に参加。


野党各党(社会民主党、新社会党、日本共産党、立憲民主党)によるマイクリレー。


僕は立憲民主党香川県連を代表してのお訴え。


防衛も大事かも知れませんが、子育て・教育関連予算の拡充がもっと大事・必要ではないでしょうか。


午後0時30分過ぎ、終了。
終了後、高松市議会議員の多田優子さん、山西朋子さんとスリーショット。
今後、彼女ら新人議員も各種の街頭行動に分担して参加します。


その後、3人でランチ。
久々に南新町の「らぁ麺すずむし」さんで、定番の『煮干しらぁ麺』を頂きました。
柔らかい味でオススメです♪


午後2時10分頃、帰宅。