嫌みを言うことも言われることも
ありますよね。
嫌みと無縁でいられるとしたら
それは幸せなことだよね。
できれば無縁でいたいけれど
現実はなかなか・・・ね。
嫌みっていうのは
言っても、言われても後味が悪い。
じとっと嫌な感じが長引く。
まさに嫌な味が後に残る。
嫌ですよねぇ。
不快にさせる感情は
他にもたくさんあるけれど
嫌みの ”嫌感(いやかん)” は
独特だなぁ、と思います。
嫌みの何が嫌なのかなぁ、と思います。
何が嫌なんでしょうね。
おそらく表面にあるのは
軽蔑ではないでしょうか。
ストレートに言っても伝わらない
うんざり感や諦め感が
ひねりになって嫌みになる。
とすれば、嫌みの根っこには
どんな感情があるだろう?
怒り?
悲しみ?
あるかもしれませんね。
どんな感情が根っこにあるにしろ、
嫌みの ”嫌感” って
根っこにある感情が
まっすぐに届いてこないところ
にあるのかな、などとも思います。
怒りにしろ
悲しみにしろ
「私は怒っている」
「私は悲しんでいる」
と表現されたら
もうちょっと素直に受け取れる
気がするんです。
例えば、自分がミスしたことが
分かっているとき
怒りをストレートに表現されれば
「そうだよな」
と認めざるを得ない。
それがねじ曲がって
嫌みの形になって届くと
素直に受け取れない。
「分かるが言い方あるやろ?」
と反発が出てくる。
コミュニケーションとしては
禍根が残るやり方です。
根っこにある感情を出せば
互いの理解が深まって思いがけず
無二の友人になる、
なんて思いがけないドラマが生まれる
可能性もあるけれど、
嫌みにはその可能性がない。
嫌みは相手の嫌みを引きだし
互いに嫌みの応酬になりかねない。
嫌みに嫌みで応じても
二人のコミュニケーションに
広がりは生まれない。
嫌みもある種の
コミュニケーションではあるれど、
せっかくのコミュニケーションでも
嫌みは手に入れたいもの・・・
『相手からの理解』を
届けてくれないのだ。
とはいえ、根っこにある感情は
自覚しづらいし、出しづらい。
分かっていても出せない。
だけど、上手く出せるようになれば
有効なコミュニケーションになり得る。
あ、もちろん。
目の前の出来事をきっかけに
過去の出来事に反応した怒りは
フラッシュバック的ゆえに
出し方うんぬんではないですけれど。
つい嫌みを言いたくなるとき
嫌みを言われて嫌な気持ちになるとき
根っこにある感情に
気づけたらよいなぁ、と思います。
そして、分かっていても
嫌みというひねりを使いたくなるとき
ストレートに表現することを
なぜか選べないとき
心の中で何かが
引っかかっているかもしれません。
分かっているんだけど
素直になれないんだよな・・・
という方、
カウンセリングってそういう思いにも
お役立てていただけるんですよ。
よかったらご検討くださいね。
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