「タイミングが来たらね」と言ったけど | ひとしずくの純金

ひとしずくの純金

たったひとつのわたしの生き方を見つける旅

 

タイミングを自ら創る。

そんなこと、可能なのだろうか。
少し懐疑的になる。









「タイミングが来たらね」

何かを新しく始めるとき、
誰かに何かを頼まれたとき、
いつか叶えたい夢を語るとき。

私たちはつい
そんなふうに言ってしまうけれど

この言葉が人生に与える影響を
よく考えずに

あまりに気軽に
口にしているのではないか?

などとふと思う。

 



タイミングが来たらというけれど、
どうなったらタイミングなんだろう??

どうなったら
タイミングが来たことになるのだろう??

そもそもタイミングって
待っていれば来るものなのだろか??

 

その実、案外

明確な言葉にはなっていなくて


自分のことは自分が一番分かるのだから
タイミングが来たら
なんとなく分かるんだろう

くらいのイメージしかもっていない
なんてこともけっこうありそうだ。



だけど。

タイミングって

ただ漫然と待っていても
 

・・・・・・たぶん

 

・・・・・・やってこない。

残酷だけれど。



「タイミングが来たらね」
というとき。

それは

「自分で決める」という
人生の主導権を手放しているとき

かもしれない。

 



外部の環境が整ったら、
それを見極めるのが自分の仕事であって

タイミングを創るのは
自分の仕事ではない、と。

『タイミングが来る』


という言葉には
『外』への期待がうかがえる。

外から何かがやってくるのを

待っているニュアンスが見え隠れ。

 

内から何かを生み出す方向とは

逆の姿勢なのだ。

 

『外側にある何か』に

人生の行く末をお任せしている。

 



物事にはどんなに頑張っても
自分には手が出せない範囲があるから

どうあがいても
「待つしかない」
「委ねるしかない」
部分が残るのは確かにそうなのだけれど

それ以外の部分で
自分にできることがあるという事実も
同じくらい確かにあるのだ。



いつだって
自分でできる範囲はある。

それが
「今は待つしかできない」
と判断することであったとしても。

タイミングが来るのを
無自覚に受け身で待たされているのと
能動的に待つと決めて待つのは別だ。



自らの人生の主導権を
しっかり握っているだろうか。

タイミングを与えてくれるであろう
どこかの誰かに
人生の主導権を渡していないだろうか。

 

漫然と期待していないだろうか。

 

そのどこかの誰かは

いるかどうかも不確かなのに。

 



「タイミングが来たらね」

私たちは
何の気なしにそう言ってしまう。

ことの重大さに気づかないまま。


そのオファーはもう
二度とないかもしれないのに。



タイミングというのは
静かに待つことが必要な場合もあれば
 

自らタイミングが来るよう
積極的に動くことが必要な場合もある。

主導権を手放さずに
タイミングよくチャンスを掴んでいく。

そういう自分でいられると良いよね。
 

なかなかたいへんではあるけれど

得るものは大きいはず。



水曜日お疲れ様でしたニコニコ
週の後半もいい時間になりますように。
 

 

 

 

カミヤカオリ

 

 

 

 

 

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