便利でデリケート | ひとしずくの純金

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たったひとつのわたしの生き方を見つける旅

大切に思うからこそ心配する。

大切な人には心配してほしい。

気にかけたり,気にかけられたり。



大丈夫かな?

ちゃんとできるかな?



心配しずぎな扱いを受けても嫌。

信じてもらえていないような。

能力不足と思われているような。

いつまでも子ども扱いされている気分。



といって,ぜんぜん心配されないのもさびしい。

大切にしてくれている?

気にならないの?

”信じている”という言葉に安住していませんか?

あまりにあっさりしすぎていませんか?



かくも不思議で矛盾したなものなり。


心配している側が『心配している』という言葉を使うとき,それが本当に心配なのか・・・立ち止まってみるといろいろと交じり合った気持ちが見え隠れ・・・。


私にも意見を言わせてほしい。

私の考えも聞いてほしい。

私を不安にさせないでほしい。

私の知らないことをしないでほしい。

私の価値感に沿わないことは選ばないでほしい。

私もその活動に参加させてほしい。


それはすべて『私の見える範囲にいなさい』という意味かもしれない。


心配している。


便利な言葉だ。

デリケートな言葉だとも思う。

相手を信じつつ,同時に現実から目をそらさずに向き合って不安に耐えられたとき,それでも,胸の内に感じる警報が鳴り止まないなら,やっぱり,それは心配している,って言っていいんだと思う。

たとえ取り越し苦労でも。

そういうときこそ,相手の手をとって話を聴くときだと思う。


ここぞというときの姿勢には,表に出てくる言葉以上に伝わるものがあると思うから。

どんな言葉を使ったか,ということではなく,どんなときにどう伝えたか。


絶対的な判断基準はないからこそ,自分の内なる声に敏感でありたい。


カミヤカオリ