大人になると、
あるいは、社会に出ると
「いち早く正解にたどり着く」
能力もさることながら
「落ち着いて正確な作業を行う」
能力が
求められることが増えてくる。
特に新社会人や
業界を変えた転職間もない頃
なんかは特に
「まずはそこから」
覚えていくことになるよね。
そこができたら
だんだんと裁量の幅が増えて
”自分ならでは” の仕事を
任されるようになるし
クリエイティブな仕事も
できるようにもなる。
一方で学校のテストは
いち早く、
定められた正解にたどり着く
そういう訓練がベースにある中で
競い合うから
どうしてもそれができると
”優秀” ということになりがち。
学校でいう優秀さとは
条件が定められた中での優秀さだ。
だけど、それを崇拝しすぎるよなぁ、
と思う場面にもちょくちょく出合う。
こう書いている私の中にもある。
世の中のいろいろは
『問い』と『正解』の間に
広い広いスペースがあるし
広いがゆえに
道のりも時間も正解さえも
いろいろの幅がある。
条件が統制された問いが提示されることは
まぁ、めったにない。
しかも、
事前に誰かが正解を用意していて
”答え合わせ” ができるわけでもない。
だから、
一応の回答を出した後も
本当に正解だったのか、は
誰も教えてくれない。
難しい問いであるほど
答えを出した後にも
「どうすればよかったのか?」
「正解はどこにあったのか?」
の問いが残り続ける。
瞬発力を求められるテストでは培えない
問いと共にある姿勢だ。
テストでいう難しい問いと
人生における難しい問いは
性質が違うものね。
求められる姿勢だって違うはず。
この「問いと共にある」を
人はどのタイミングで学ぶのだろう?
不思議だよね。
「何が起こっているんだろうね?」
「今は分からないね」
「答えが見つかるまで待とう」
こういう問いと共にありながら
答えを探すことに焦らず、
それでいて諦めず
根気よく問いを持ち続ける。
忙しい時代に
なかなか許されないケースもあるけど
その早く早く、の姿勢こそが
答えの幅を狭めているんじゃないかなぁ、
と思うことも多い。
早く答えを出せることだけを見て
有能さだと感激してしまう
自分たちの素朴な姿勢に
時に立ち止まって疑えるとよいなぁ、
なんて思います。
カミヤカオリ
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