草花の世話をするようになった私ではあるが、前向きな気持ちとは程遠い日々を送っていた。相変わらず生活は昼夜逆転していて、両親ともほとんど話をしない。私は闇に心を潜めた夜行性動物のようであった。そんな状態でも、大吉だけは可愛かった。月に一回お風呂場に衣装ケースを持ち込み、それを湯船代わりにして大吉を洗っていた。大吉はお風呂が大好きなのだ。
 
 衣装ケースを持ち出すのを見つけると、大はしゃぎしてお風呂場に走っていく。湯船に浸かりシャンプーで洗うと、何とも言えない気持ちよさそうな表情をするのだ。そんな時、つかの間の幸せを感じることができた。しかし、タオルで拭かれるのは大嫌いだ。洗い終わるとバスタオルにくるんでデッキに連れて行き、どうにか大吉の濡れた体を拭こうとするのだが、毎回大暴れされる。やがて根負けして拭くのを諦め、デッキで自然乾燥するまで走り回っている様子をしばし見守ることになる。だから大吉をお風呂に入れるのは晴れた日に限られるのだ。私の心模様とは裏腹に。

 大吉は光り降り注ぐ太陽の元へと、なるべく私を連れ出したかったのかもしれない。

 大吉にしか心を許していなかった。大吉は私がどんなに落ち込んでいようとも、そんなことお構いなしに尻尾を振りながら全速力で走り寄ってくる。そして文字通り体当たりして止まるのだ。その後すぐにお腹を見せて寝転がり、撫でることを要求してくる。そんな無邪気な大吉が、可愛くて仕方がなかった。しかし、人に対しては頑なに心を許すことがなかった。両親はもちろん、たまに訪ねてくる長男は特に苦手だった。
 
 私は八歳の頃に四つ上の兄を病気で亡くしている。一年近く入院して死んでしまった。その時の絶望感は、あらゆる手段を用いても到底表現できないほど圧倒的なものであった。死んでしまった兄が大好きだったのだ。いつも後をついて回った憧れの存在であり、目標でもあった。

 私は四人兄弟の三男である。二つ下には妹がいる。死んでしまった兄は次男であった。体格も大きく、性格も温厚でクラスメイトからとても慕われていたようだ。大好きな人がある日突然亡くなってしまうことほど残酷なことはそうはないだろう。私の兄がそうなってしまうとは夢にも思わなかった。必ず元気になって家に帰ってくると信じていた。

 その日の朝、いつも通りお気に入りの鼻歌を歌いながら靴下を履いていた。まさにその時、父が電話で誰かに話をする声が聞こえてきた。

 「早朝に亡くなった。」

 驚きながらも、そのことが決して間違いではないことを肌で感じ取っていた。冗談で言える内容でないことぐらい、八歳の私にも十分理解できた。その日からしばらく慌ただしい日々が過ぎた。お通夜、お葬式と滞りなく終わり、ざわついていた我が家に平穏な日常が戻ってきた。ただ、とてつもなく大きな穴がぽっかりと開いてしまったようだった。そして周りの大人たちは口を揃えて私にこう言った。

 「お兄ちゃんの分まで頑張らなくちゃね。」

 そんなことできるわけないのにと思いつつ、黙って頷いていた。今思うとなんて残酷な言葉だろう。私に兄の人生を背負えというのか、私は私でしかないのに。だからというわけではないが、いたって普通に振舞うよう心がけていた。周りからとても期待されていたし、傷ついている両親にこれ以上心配をかけるわけにはいかなかった。

 演技力が素晴らしかったのか、私が絶望のどん底に叩き落とされていることに誰も気がついていないようだった。しかし、内心ではどす黒い思いが渦巻いていた。学校の友達やいとこが、兄弟と楽しそうに遊んでいる様子を見るのが苦痛であったし、

 「私と同じ目に遭えばいいのに。」

 と心の底から願っていた。だけど私の願いとは裏腹に、残念ながら誰ひとり死んではくれずにピンピンと生きていた。その頃から、今までと打って変わって学校でも悪質な悪戯をすることが多くなった。私の心は確実にねじ曲がっていった。兄が亡くなってから悲しい気持ちや醜い思いを誰にも打ち明けることができず、生き地獄のような苦しい日々を送ることになる。

 そしておよそ10年後のある日、兄の死を乗り越える気づきがまるで雷に打たれるかのように降ってきた。何の前触れもなく。きっと、頭の片隅で探し続けてきたのだろう。

「そうか!兄が生きていれば今でも私は兄に頼り切っていただろう。自分で決断すらできない人間になっていただろう。」

 そうして初めて、兄の死について前向きな答えの一つを見つけることができたのだ。長年私を苦しめてきた過去の辛い出来事がようやく昇華した瞬間だった。その時の嬉しさは今でも忘れない。
 
 一方長男とは歳が十一も離れている。しかし、ストレスのはけ口としていじめられた記憶しか残っていない。長男は幼少期から高校まで複雑な環境で育った。当時父は商売を始めたばかりで忙しかったし、母も家計を助けるために洋裁の仕事を請け負っていた。親戚の家に預けられていた時期もあったそうだ。きっと愛情に飢えていたのだろう。小学校、中学校と転校も何度か経験し、せっかく作り上げてきた居心地の良い環境や友人と別れることも度々あったようだ。

 また、親の都合で全寮制の高校に強引に入れられてしまったらしい。上下関係が厳しく、耐えきれずに脱走して何日か音信不通になったこともある。そのような経験の中で、屈折してしまったことは想像に難くない。しかし、子供の頃の記憶は大人になってもそう簡単には消えることがなく、いつまでもしつこく脳裏に焼き付いたままだ。

 そんなわけで、今でも長男と話をすることはなるべく避けたいし、できれば同じ空間にもいたくないほどだ。たまに訪ねてくると、基本的に二階にある自分の部屋から出ない。午前十時頃訪ねてきてから夕方の六時頃に帰るまで、私はひたすら部屋にこもる。もちろん、水分はなるべく摂らないようにしている。トイレを我慢するのはかなりの苦痛だからだ。水分を取り過ぎてしまい、何度か自分の部屋の窓から小便をしてやろうかと思ったことさえある。それぐらい、長男が苦手なのだ。
 
 相変わらず、ほぼひきこもりの生活を送っていた。外出するのは、通院する時とタバコを買いに深夜のコンビニに行く時ぐらい。そんな私にとって、森の中に住んでいることは大変ありがたかった。近所の目を気にしなくてもよかったから。

 実は今住んでいる自宅は、かつて別荘であった。私が自殺未遂をしたのをきっかけに、両親と引っ越してきた。元々住んでいた実家は事情があり今はもうない。父親が経営していた会社が傾いてしまったからだ。実家には三十年ぐらい住んでいた。たくさんの思い出が詰まった大切な場所であった。実家が取り壊されると聞いた時、とても寂しく複雑な気持ちだったことは言うまでもない。

 当時実家には見事な藤棚があり、毎年きれいな花を咲かせていた。私が幼稚園を卒園するときにもらった苗木が成長したものである。今は跡形もないだろう。しかし今でも思うのだ。実家がそこに存在し、毎年きれいな藤の花を咲かせているに違いないと。