自殺未遂をしたまさにその翌朝、校長先生が自宅を訪ねてこられた。だけど私は見るも無残な姿だし、意識もはっきりとしていない。とても、お会いできる状態ではなかった。両親は事実を伏せ、ベッドから起き上がれないほどに体調を崩しているということだけを、伝えてくれたようだ。大変申し訳なかったが、校長先生にはそのままお帰り頂いた。

 その日から一週間ぐらいだろうか。私はまともに歩くことすらできなかった。

 「一生この状態が続いたらどうしよう。」

 今まで味わったことのない恐怖を感じていたことを、今でもはっきりと覚えている。
 
 肉じゃが。この世で一番好きな食べ物である。ある出来事があって以来そうなった。絶望と恐怖から逃れられない私は、毎日一日中ベッドで寝ていた。もちろん食欲は全くない。そんな中、母が肉じゃがをつくって持ってきてくれた。

 「いらない。」

 私は少し苛立ちながらそう言った。

 「まぁ、そんなこと言わないで。」

 母はそう言い残して、枕元のテーブルに肉じゃがを置いて去っていった。しばらくして、なぜか食べてみようという気持ちになった。すっかり冷めていたが、それはとても美味しかった。それが不思議でならなかった。今すぐにでも死にたいと願っている人間が、美味しいと感じるなんてありえるのだろうか。後に私は気づくのだ。母の生きていて欲しいと願う想いが、そう感じさせたのだと。
 
 さて、十日もするとすっかり体も回復し、自由に動けるようになった。もちろん、精神的には最悪な状態のままであったけれど。どれぐらいの日数が経った頃だろうか。再び、校長先生が自宅を訪ねてこられた。今度は退職願の書類を持って。

 教師を辞めることには、何のためらいもなかった。もう自分には勤まらないだろうと思っていたし、これだけの多大な迷惑をかけた職場に、戻ることなど到底考えられなかった。そして何よりも、もろくも精神的に崩れ去った自分を、職場の先生方は哀れんでいるに違いないという屈辱感にも似た思いがたまらなく嫌だった。

 みじめな自分を晒し者にしたくない。結局二度と学校へ行くことはなかった。私は最悪の辞め方をした。
 
 唯一の心残りは、私が担任を務めていた三十数名の子供たちのことであった。ある日突然、先生が学校へ来なくなってしまったのだから。子供たちとお別れすらもできなかった。そのことは長い間私を苦しめ、当時はテレビで何の関係もない子供を観ることすらも辛かった。今でもたまに思い出しては、大変申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。 

 私は再び無職になった。ただただ毎日寝てばかりいた。生活のリズムは乱れに乱れ、完全なる昼夜逆転。いい歳した大人が、仕事もせずに年老いた両親を頼って生きている。合わせる顔がなかった。夜中にこっそり起きだしては冷蔵庫をあさり、暗い部屋の中でひとり無言で食べていた。

 こんな最悪な状況にもかかわらず、お腹が空くことに対して腹立たしくもあった。

 「ダメな奴だ。人として最低だ。根性の欠片もない。私なんてこの世にいない方がいい。」

 一日中そんなことばかり考えていた。
 
 自らの命を絶とうとしたあの日から、笑うことをすっかり忘れた。愛想笑いすらできない自分がいる。顔は無表情で目もうつろ。鏡に映る自分は、まるで生きた屍のようだった。約二年間、一度も笑わなかった。ニコリともしなかった。今考えるとゾッとする。よく生きていたなと。

 それにしても笑うってすごいことだ。少なくとも今すぐにでも死にたいと考えている人間には、どう頑張ってもできない芸当だ。笑えるということは、わずかでも希望がある人たちの特権ではないだろうか。だから私は思うのだ。笑えるうちは大丈夫だと。 

 当時は、毎日のように死にきれなかったことを悔やんでいた。同時に今すぐにでも死にたいと思っていたが、もはやそのエネルギーすらもない。自ら命を絶つということは、大変な精神的労力が必要だということを知った。絶望的な日々を送っていた私は、ある日突然素晴らしいアイデアを思いついた 

 「そうだ、肺ガンで死のう。」

 ガンで死ぬのであれば自然だし、誰も文句は言わないだろう。学生の頃からスモーカーだった私にふさわしい。その日から、市販されている中で一番ニコチン含有量の多いタバコを吸うことに決めた。最低でも一日二箱。これが自分に課したノルマだった。
 
 毎日起きている時間はひたすらタバコを吸っていた。肺ガンに早くなってしまえと願いながら。ある日インターネットで調べていたら、血痰が出ると肺ガンの可能性があることを知る。

 それ以来、私は痰が出るたびに血が混じっていないかを確認するようになった。しかし、なかなか思うような結果は出ない。もどかしい思いを感じながらも、今度こそはきっと出るはずと、毎回期待しては失望する日々を過ごしていた。