今年の大河ドラマはお江戸の

浮世絵文化を作り上げた

今で言うメディア王、

蔦屋重三郎様の物語。


さっそくリアル吉原が話題になって 

おりますが、重三郎の話と並行して

進んでいるのが、

江戸城内、政治の物語。


ここで活躍されているのは

歴史のワルモノ、老中田沼意次(おきつぐ)。

賄賂政治と言われていましたが、

重農主義から重商主義に

政策転換をし、

世界の動きも見据えた優秀な人だった、

と評価も変わってきています。

(この時代賄賂はごくフツーだったとも)


渡辺謙様が演じているので

ワルモノじゃないよな、って

わかりますが。





今回はそんな田沼意次、というよりも

彼を重用した10代将軍徳川家治公って

どんなお方だったのでしょう、と

いうことを。


そもそも田沼家は紀州徳川家に仕える

足軽の身分。

意次の父は仕えていた殿様、

徳川吉宗が8代将軍の座についたため、

なんと幕府旗本に出世。


意次は吉宗の嫡男、9代将軍

家重の小姓となります。

家重は脳性麻痺であり、

言葉は不明瞭、

尿意をコントロールできない、

などなどの障害を抱え、

いろいろ言われていますが、

頭脳は明晰だったと見られています。


その家重は意次の才能を認め、

息子の家治に将軍職を

譲ったのち、臨終を迎えた時に

「田沼は完全な人物だ、

心をかけて召しつかうべき。」

と、言い残した記録が残っています。


父家重の言葉通り、

10代将軍家治は、田沼意次を

重用し、彼の治世は

田沼時代とも呼ばれているのです。


さて、家治様は

祖父吉宗公に溺愛されて育ちました。


幼少期より聡明で

剣術、弓、馬術に秀で、

鉄砲は名人の域だとも。


能や絵画、書画も上手く、

囲碁も得意で将棋に関しては

現在でも、アマ高位、プロ手前の

腕前で、とりわけ残した詰将棋の 

棋譜はたいしたもののよう。

文武両道

そんなですから

吉宗公や周囲に期待され、

吉宗直々の帝王学を授けられて

育ちました。


生まれながらの将軍として、

その気質も穏やかで品があり、

謙虚で気遣いの出来る人物だった

ようです。


この時代にしては珍しく

正妻と仲の良い愛妻家でもありました。

将軍家の御台所は皇室と縁の深い

政略結婚が多く、

大抵の場合実際に御台所と将軍が

夫婦として子をなすことは

なかなかなかったのです。


家治の御台所も宮家出身の

倫子(ともこ)女王。

家治と倫子の間には二人の女の子が

生まれ、

家治は倫子がいれば良い、と

側室を持たない有様。


跡継ぎをお持ちにならないと困ります、と

田沼が側室を勧めると

渋々ながら納得、しかも

「田沼、そなたも側女を持て」との

条件付きだったとか。


大奥にも興味を持たなかったため、

その費用も削減されました。


側室2人に男児2人が生まれたものの、

その後は一切彼女らのもとには

通わず、子の成育も

倫子に任せています。


しかし4人の子はすべて

成人することはありませんでした。


とりわけ嫡男、11代将軍になるはずだった

家基が17歳で急死したことは

大きな衝撃だったことでしょう。


そのあとは政務の一切を田沼に任せ、

趣味に没頭したといいます。


その点について愚公とする人々、

いや、田沼の才を見抜いて

政治を任せることができた名君だ。とも。


家治時代は目黒行人坂の大火やら

天明の飢饉も起きましたが、

将軍は民は苦しんでいないか、と

心配していたし、

 

年を重ねてトイレが近くなっても

側のものを起こしては可哀想だ、と

足音を立てずに厠に立つような

殿であったのです。


財政面では厳しい徳川幕府でしたが

田沼意次は倹約令をもって

家治の日光東照宮行きの費用を

捻出して敢行。


株仲間を奨励して商人たちを

活気づけ、

長崎での取引を活性化し、 

貨幣経済の広まりに

力を入れました。


江戸後期、まだ外国の脅威も

及んでいないこの時期。


才長けながら穏やかで 

家族や家臣を大切にした将軍様、

その将軍様のもとで

経済発展を進めようとした老中、

世の中は平和でありつつも

活気づいていたことでしょう。 


そんな中で人々が楽しめる

数々の本を出版、

華麗な文化を花開かせた蔦屋重三郎。


江戸が江戸らしく、

ひとがそのひとを輝かせることが

できた時代だったのでしょう。