
柔らかな色合い、光の表現の美しさ、
独特な構図になんともいえない曖昧さ…。
19世紀初頭のフランスに現れた
新しい絵画表現、印象派。
浮世絵の影響も多大に受けた
印象派は、日本でも大人気。
中でも印象派、という言葉をもたらした
「印象、日の出」を描き、
晩年には睡蓮の連作で
多くのファンを持つのは
クロード・モネ。
モネといえば睡蓮、とまで
浮かんでくる独特の水面と浮かぶ花、
それもほぼ抽象的にも描かれた
ものですが、
モネといえども最初からあのような
描き方をしていたわけではありません。
ピカソだって極めて精巧で
写実的なところからだったように。
86年間の最期まで絵を描き続けた
モネの生涯はどのようなものだった
のでしょうか。
モネが生まれたのは1840年。
アヘン戦争で清がやられ、
日本国内では天保の改革が行われている、
西洋が世界を飲み込もうとしている
幕末が近づいてきた時代です。
パリに生まれましたが
幼少期に北の海に面する
ノルマンディー地方に移り住み、
自然豊かな環境で育ちます。
画才に恵まれ、10代で似顔絵、
風刺画と呼ばれるカリカチュアで
かなりの小遣いを稼ぐようになります。
自分でも、あのままカリカチュアを
描いていれば長者になれたのに…。
と回想しています。

そのモネの才能を見抜き、風景画を
描かせたのは、ブーダンという先輩画家。
このころチューブ絵の具が開発され、
戸外で絵を描くことが可能になったのです。
彼がいなかったら画家、モネは
存在しなかったことでしょう。
21歳でパリに出たモネは
ピサロ、シスレー、ルノワールといった
ともに印象派を構成する仲間に
出会います。
同じ風景を時間や季節を変えて
何度も描いていたのはこの頃から。
水辺や海もよく描いています。
収入が欲しくてサロン向けの
絵画も描き、見事入選しています。
とはいえ、生活は楽ではなく、
画家の親友バジールの家に
ルノワールとともに居候したり
しています。
モデルであったカミーユの絵も
いくつも描き、
彼女との間に息子も生まれました。
モネは良いと思った他人のものは
積極的に取り入れ、
先輩マネの構図や背景、
なにより影響を受けたのは
歌川広重の浮世絵で、
広重の構図を真似たものは
生涯を通して描きつづけています。
しかし妻子を養うのも大変、
援助をしてくれていた友人バジールは
この頃勃発した普仏戦争
(プロイセンのビスマルクが
ナポレオン3世を挑発して起こす。
フランスボロ負け)に志願して戦死、
絶望してセーヌ川に身を投げて
自殺を図るものの、何ともなく…。
30代に入ると生活は安定し、
妻子との幸せな生活を送れるように
なります。
34歳のころ、第一回印象派展を
開催。
モネの「印象・日の出」という絵から
印象派という呼び名が広まります。
酷評するものもあれば、
これからはこれだ、と印象派の絵画を
買い占める画商も現れます。
第二回印象派展では日本美術に
魅了されていたラ・ジャポネーズ
ものが大評判となり、人気を博します。
モネはそういったものも描きつつ
水辺、とりわけセーヌ川を
あらゆる時刻、あらゆる季節に
描き続けるのです。
しかし好調は長く続かず、
妻カミーユは病に冒され、
パトロンであった友人オシュデが
破産してその妻子7人が転がり込んできます。
40代に入ると貧困と絶望の時代、と
される日々が続きます。
カミーユは亡くなり、暗い色彩の
ものを多く描くことになるのです。
しかし、この頃に描いた数々のものが
モネの画風を確立していくことに
なるのです。
浮世絵の構図にヒントを得た
ノルマンディーの海岸、
ゴッホが絶賛したひまわり、
評論家の小林秀雄はこの頃の
モネの絵を
「モネは風景の至る所に色が輝くのを見た。
影さえ様々な色で震えているのを見た。」
と評しています。
43歳の時に画商の援助で
ジヴェルニーに転居、
このあと死ぬまでジヴェルニーに
留まるのです。
また、親友ルノワールと
初めて地中海を旅し、あまりにも
明るい海の光に戸惑いつつも
新たな光の表現に取り組んでいます。
52歳の時にオシュデの妻であり、
面倒を見てきたアリスと結婚。
もっともオシュデが存命の時に
生まれた息子がモネの息子と
そっくりで、彼らがモネのところに
転がり込んだのはそのせい、とも
囁かれています。
なお、モネの長男ジャンと
アリスの娘ブランシュは
のちに結婚し、
画家でもあった彼女は
モネの継娘、嫁、助手、モデルであり、
モネ邸の保全に力を尽くしています。
モネはまた、冬のノルウェーや
次男が留学していたロンドンにも
旅をして、様々な風景を描きます。
晩年の20年間は庭だけを描くように
なっていきます。
しかし、最愛の妻アリスを亡くし、
長男ジャンを亡くし、
親友ルノワールも亡くなり、
白内障も悪化していきます。
それでも、失意を超えて描き続けます。
もっと光を、もっと色を自在に
操って思うような絵を描きたい。
ジヴェルニーの庭には
日本から持ってきた睡蓮、
広重の絵にあった太鼓橋、
柳の木に藤棚、と日本のものを
多く取り入れています。

始めの頃は池のまわりのそれらも
描いていましたが、
やがて柳の木や空は
水面に映るものとして表現されて
いきます。
水と反射光だけが、絶えず
頭の中を去来する…。
モネはそう語っています。

視力を失いつつあるモネが
心の色彩で描いたいくつもの作品は、
のちに野獣派と呼ばれる
若い画家たちに大きな影響を
与えます。
83歳で受けた手術が成功し、
視力はある程度回復します。
晩年のモネを支えたのは
アリスの娘でありジャンの妻
ブランシュと、若い頃からの
友人クレマンソー。
クレマンソーとはモネが貧しい画家、
クレマンソーが医学生であった頃からの
長い付き合い。
やがてクレマンソーは政治の世界に
身を投じ、首相となります。
モネの美術館、オランジュリーが
完成したのはクレマンソーの
助力によるものであり、
86歳のモネはクレマンソーの腕の中で
息絶えたとも言われています。
モネに風景画を勧めたブーダン、
ルノワールを始めとした
印象派の仲間たち、
彼を支えた画商たちにクレマンソー、
モネを慕う若い画家たち、
クロード・モネはその作品のみならず
人柄も愛されてきたのでしょう。
そしてモネの作品を愛し、
憧れる人々が絶えることは
ありません。
世紀末に彼が現れてくれたこと、
終生描き続けてくれたこと。
そして彼の作品を楽しめることに
感謝して。
