織田信長やら明智光秀やら、

闇バイト支持者がそんなのを名乗るとは

恥を思い知れ!と

言いたいところですが、彼らにしても

少しでも自分を大きく見せたかった

のでしょうか。


名前を借りることでかえって

物悲しさを増してしまったような。


戦国武将というものは

やはり気持ちを掻き立てるものですが、

自分の力で大名にのし上がった

初の戦国大名、といえば

東西を結ぶ要、

名城小田原城を拠点に関東の覇者として

100年近く君臨した

北条氏の祖、北条早雲です。





彼に関してはこれまで

一介の素性もしれない素浪人であり、

陰謀策略を駆使して下剋上を成し

それも50歳を過ぎてから頭角を

現して70過ぎまで戦場で戦い、

88歳まで極めて健康に過ごした…。


というドラマチックな一生が

語られていますが、

近年の研究によると、

室町幕府に仕える名家の出身であり、

年齢も言われているより

20歳ほど若いのでは、と

見られています。


英雄伝説に惑わされず、

等身大の早雲に迫ってみましょう。


早雲は備中、岡山の伊勢氏の出と

見られています。


伊勢氏は室町幕府に仕える

武士団の一員で、

将軍様の養育係をしておりました。


この頃8代将軍 銀閣作った

義政公の跡継ぎ争いから

応仁の乱が起こってしまいます。


早雲はこの戦乱を避けたのか

はっきりしませんが、

姉が嫁いでいた駿河の

今川家に身を寄せます。


しかし姉の夫、駿河の守護大名が

亡くなってしまい、息子は6歳。

跡目相続の揉め事の仲裁に入ります。


家督代行を決めて早雲の甥は

無事次期当主に。

この次期当主今川氏親は

織田信長に桶狭間で滅ぼされる

今川義元のパパに当たります。


応仁の乱が終わって一度京に

戻りますが、家督代行が

いつまでも権限を手放さないので

再び駿河入り。


今川氏の後見人として駿河を

受け持つことになります。


このあたり、関東を任されていた

関東公方の足利家

(幕府の足利家の分家ですが仲悪い)と

それを補佐する上杉家も

口を突っ込んでくるし、

この頃、幕政を仕切っていたのは

細川氏、いろいろ入り込んできます。


さて、今川家の家臣として、

城ももらっていた早雲ですが、

伊豆の国の足利家で家督争いが

起こります。


黒幕は11代将軍と言われ、

早雲はその実行役とし、

そして伊豆を手に入れるのです。


それも、武力で攻め立てたわけではなく、

敵の兵士の買収をしたのです。

味方になれば本領安堵、

参じなければ家も畑も荒らす、と

立て札を立て、病のも゙のには

手を尽くして看護するなどしたところ…。


武士も領民も喜んで

早雲に寝返ったため、

追い詰められた領主は亡くなります。


この、今川家の家臣に過ぎなかった

一武士が国をとって大名になった

ところから、「下剋上の始まり」と

言われるようになったのです。


さて、次なる目標は小田原城。

この時の城主は上杉家由来の

大森氏。

上杉家内も混乱していて

早雲はこの機を逃しません。


早雲も大森氏も上杉家内の同じ派閥

でしたので、

早雲は贈り物などもして、

親しくなっていきます。


ある時、

「鹿狩り中に鹿が小田原城の裏に

いってしまったので、恐れながら

領内に入ってもよろしいでしょうか」

と大森氏に持ちかけます。


大森氏、人がいいのか

大物に見せたかったのか

単なる油断大敵な奴だったのか…。


小田原城の裏に入り込んだ早雲、

数百の家臣を変装させ、

1000頭の牛を裏山に登らせます。


夜になると牛の角に松明をつけ

城内に一斉に追い立てます。


城内はパニックになり、

早雲はさほどの犠牲を出すこともなく

小田原城を手に入れたのです…


もとは中国の故事から、

そして源平合戦において

木曽義仲が平家を破った

倶利伽羅峠の戦いでも使われたという

「火牛の計」と呼ばれるものです。


その後三浦半島の豪族三浦氏も

滅ぼし、相模一帯を手に入れます。

この時、三浦一族の血で湾は赤く染まり、

その血が油のように浮いていたことから

「油壺」という地名が

つけられたのです…。


と、領土争いでは知恵を絞り

敵を欺く早雲。


敵を欺くには情報入手が必須。

早雲は諜報集団として

風魔一族を家臣にします。


その頭領は代々風魔小太郎、と

名乗りました。

小説やゲームキャラとして 

いまだ活躍している風魔小太郎ですが、

この北条氏に仕える集団だったのです。


敵に対しては油断ならない

早雲ですが、民には善政を敷き、

慕われています。


鎌倉の大仏殿も崩壊した

明応の大地震の際には

民衆に薬を配り、手当てをし、

年貢の減免を行っています。


また、武士として最初に

検地を行ったのも早雲と

見られています。


領内から荘園を排除し、

正しく検地を行い、

その地に応じた

決められた年貢を納めれば良い。


領民は領主や荘園主の良いように

年貢を取られるのではなく、

取れたものから決められた割合を

納めれば良いことになり、

安心し、

近隣諸国の民も北条様の

国になればよいのに、と

願ったとされています。


また、早雲としても荘園のような

中間搾取がなくなり、

すべて自分のところにやってくる

仕組みを作り上げたのです。


これを全国的に行ったのが、

後に北条氏を滅ぼすことになる

豊臣秀吉です。


また、分国法の手本となった

早雲殿  廿一箇条

(そううんどのにじゅういっかじょう)を

残しており、

日々心がける事柄が書かれています。


なお、早雲は生前北条とは

名乗っていません。

息子が、関東の地を治めるのには

西国の伊勢氏よりは、

鎌倉幕府の実力者北条氏にあやかるべき、

と名を変えたのです。


そのため、後北条氏とも呼ばれています。

鎌倉幕府の北条氏ももとは伊勢氏だという

説もあり、

全く無関係でもないのかもしれません。


では、現代にも繋がる

早雲の家訓をいくつか。


それにしても、この時代なかなか

興味深いです…。


「手水は早く済ませること。

水はたくさんあるからと無駄遣い

してはならない」


「礼拝とはすなわち身の行いである。

正直で柔らかな心を持ち

上のものを敬い、下のものを思いやる。

そうすれば、たとえ祈らずとも

神仏の加護は得られるもの。

祈っても心が歪んでいれば

その願いは神仏には届かない。」


「常に書物を持ち歩き、空き時間には

読書に励むこと。

文字は読み書きしないとすぐに

忘れてしまうものである。」


「一言半句たりとも嘘をついてはならない。

ありのままを話すことが肝要で、

嘘をつくことが癖になれば

他人の信用を失ってしまう。」