音楽の都、ウィーン。
そのイメージは洗練された
オーケストラの楽団に、
華麗で優雅な舞踏会。

舞踏会で踊るのは、ワルツ。
ワルツは、ヨハン・シュトラウスと
その息子、ヨハン・シュトラウス2世が
いなければ確立しませんでした。



ヨハン・シュトラウス2世は
存命中から大変な人気を博し、
「ワルツ王」「オペレッタ王」
「ウィーンの太陽」と呼ばれ、
ハプスブルク家の
ヨーゼフ1世と比して
「もうひとりの皇帝」とまで
呼ばれた人物です。

ワルツやポルカ、ダンス音楽に
オペレッタを数多く
作曲しています。
(オペレッタとは
オペラがすべて歌なのに
対して、セリフも多いもの。)

彼が生きた時代は、
同時代の先輩に
シューベルトやシューマン、
リストにワーグナーがいて、

スメタナ、ブルックナー、
ブラームスやサン=サーンスが
います。

父のヨハン・シュトラウスは
流しの音楽家から 
ワルツの父と呼ばれるほどに
のし上がって地位を得た人物。

毎日ワルツを演奏する
人気音楽家で、

息子のヨハン・シュトラウス2世は
そんな父に憧れて
音楽家を目指しますが、  
音楽家の大変さを知っている父は
大反対。
(ピアノだけは教養として許される)

厳格な父は
音楽の道を許しませんが、
そのうち若い愛人を作って
家にいず、
生活費も渡さなくなります。

その隙に母は3人の息子たちを
音楽家にする応援をします。

18歳でデビューしようとした
ヨハン・シュトラウス2世。

そこに立ちはだかる父の壁。
会場を貸さないよう嫌がらせをする、
新聞社を買収して
中傷する記事を書かせる。

息子も負けません。
若い音楽家を集めて
自分の楽団を作る、
父の息がかかっていない
飲食店と契約する、

父は愛人にかかりきりで
自分が母と弟たちを養わなければ
ならない、と役所に泣きつき
(本来は20歳にならないと
デビューできない)
それを記事にしてもらう。

無事デビューを果たした
ヨハン・シュトラウス2世。

5年後、父と息子は和解しますが、
すぐに父は亡くなります。

父の楽団も吸収し、
ウィーン中の舞踏会の仕事が
一気に若いヨハン・シュトラウス2世に
のしかかります。

ハプスブルク家を中心に
ウィーンは景気がよく、
貴族たちは毎晩舞踏会を開き、
医師会や法律家協会も
舞踏会。

軽やかで華やかな
ヨハン・シュトラウス2世の
ワルツは大人気。

毎晩5箇所ほどの舞踏会の
演奏をこなし
(当時はすべて生演奏ですから)
依頼された作曲をする。

過労で危篤状態に陥ったこともあり、
演奏の指揮は、弟たちに譲ります。

そんなヨハン・シュトラウス2世、
一時期ハプスブルク家を
批判したこともあり、
宮廷の仕事は
なかなか得られませんでした。

が、そんなヨハン・シュトラウス2世は
ロシアの鉄道会社に招聘され、
さらにロシア宮廷とも契約を
結びます。

ロシアでの契約は破格だったそうで、
一説によると、
ウィーンでは500円の仕事が
ロシアでは40000円もらえるような
状態。

必死に働きつつも
楽団員に支払う給与にも
困っていた
ヨハン・シュトラウス2世と
その家族は一気に大富豪となります。

ヨハン・シュトラウス2世は
その後も10年ほど
ロシアで仕事をします。

もっとも忙しくて
その大金を使う暇もなかったとのこと。

やがてウィーン宮廷の
仕事も手にします。

ヨーロッパ中の人気を手にした
ヨハン・シュトラウス2世でしたが、
母、弟、叔母の3人を
ほぼ同時期に亡くします。

落ち込む
ヨハン・シュトラウス2世を
励まし、
オペレッタへの転向を
勧めたのは妻ヘンリエッタ。

ヨハン・シュトラウス2世の周りには
若い美女がたくさんいたものの、
彼が一目惚れしたのは
11歳年上で男爵の愛人でもあった
彼女。

ヘンリエッタは財産もあり、
社交界での顔も利く存在であり、
ヨハン・シュトラウス2世は
彼女のお陰で飛躍することが
できたと言われています。

もっともヨハン・シュトラウス2世の
女性関係は派手であり、
ヘンリエッタが60歳を超えると
若い愛人を何人も作り、

2人め3人めの妻は30歳ほど
若い女性でした。

2人めの妻はすぐに他の男性と
駆け落ちしてしまいましたが、

3人目の妻は幼い時から
ヨハン・シュトラウス2世の
近所にいたため、
ヘンリエッタのことも知っており、
最後まで彼をよく支えています。

ちなみにヨハン・シュトラウス2世には
実子はおらず、
妻たちの連れ子を可愛がったとのこと。

オペレッタ「こうもり」は
オペレッタの最高傑作と言われ、

ワルツ
「美しき青きドナウ」は
ウィーン第2の国家とも。

晩年になると投票で
世界三大有名人にも選ばれて
います。

音楽活動50周年には
祝賀委員会が立ち上げられ、
それに便乗した市民も
次々イベントを開き、
盛大に祝われています。

また、同じ音楽家たちからの
絶賛を受けているのも
この方くらいかもしれません。

「世界に喜びを与えるべく
天性の素質に
恵まれているものの中でも
ヨハン・シュトラウスこそが
私を惹きつけて離さない
最高の人だ。
(リヒャルト・シュトラウス)」

「シュトラウスの音楽こそ
ウィーンの血であり
ベートーヴェン、シューベルトよ
流れを直接受けた
主流である
(ブラームス)」

「彼はヨーロッパ音楽の
最高峰のひとつである。
(ワーグナー)」

などなど、才能がぶつかる
天才たちからも賛美されるのは
この方くらいかもしれません。

誰もが彼に惹かれ
彼の音楽を愛していたのでしょう。

75歳で肺炎で亡くなったとき、
ウィーンの中央墓地に葬られ、
10万人が参列したと言われています。

今も、ウィーンフィルの
ニューイヤーコンサートでは
何曲もヨハン・シュトラウス2世の
ワルツやポルカが
演奏されています。

アンコールの2曲目は
ヨハン・シュトラウス2世の
「美しき青きドナウ」、
そして最後に楽しい手拍子の
「ラデツキー行進曲」、
これはパパ
ヨハン・シュトラウスの曲、
親子で並んで素敵な新年の
始まりです。