「鳴かぬなら 生きよそのまま ほととぎす」

織田信長の弟にして
武将であり、茶人として
名を残した織田長益、
または有楽斎(うらくさい)。

信長の13歳下の弟です。
信長には20人ものきょうだいがいて、
有楽斎は異母兄弟、
お市の方と同じ年になります。
(信長とお市の方はともに正室の子)。

有楽斎は、信長の将来を
悲観して切腹してしまった家臣、
平手政秀に養育され、
その娘を妻にもらっています。

武勇よりも教養深く
文化に通じていた有楽斎は、

合戦に出ては落馬したり、
補佐役についた者は
有楽斎を助けるのに大変で 
まともに戦えなかった、
などと言われています。

出陣しても使い物にならなかったため、
前線には回されなかった模様。

ただ、信長は彼の教養深さを
買って、
交渉役や京との交流、
教育係に重宝したと
いうことから、

そちらに能力があり、
しかも信長に
気に入られていたところから、
人柄も良かったことが
類推されます。

その後信長の長男、信忠に
つきますが、
本能寺の変の際に
信忠も自害、

しかし有楽斎は脱出したことから、
逃げの長益(有楽斎は後の呼称)と
京都中から揶揄されます。

もっとも真相はわからないため、
脱出したのか、
信忠の命で逃れたのか、
記録は何も残っていません。

その後は次男信雄とともにいて、
家康と同盟を結びますが、
家康と秀吉が争うと
家康を裏切って秀吉側に
ついてしまいます。

秀吉からは重用され、
側近となり、
淀殿をはじめとする
お市の方の娘たち、
有楽斎には姪にあたる彼女たちの
面倒を見ていたとも。

がっつり大阪方のはずの
有楽斎でしたが、
関ヶ原では東軍、
家康側に付いています。

和睦の使者にもなりますが、
豊臣家は滅び、
有楽斎は茶人として
風雅に生きることになります。

本能寺の変の前から
茶を嗜み、
武野紹鷗、千利休に師事し、
利休のとりわけ優秀な弟子、
「利休の七哲」にも入ります。

有楽斎が建てた茶室、
「如庵」は国宝。

有楽斎、実はキリスト教徒で
あり、如庵とは、
クリスチャンネームのジョアン、から
と考えられています。

織田家に生まれ、
信長に可愛がられ、
秀吉の側にいたかと思うと
最後は家康の下に行き、

茶人としての彼の側には
多くのひとが訪れる…。

身の処し方だけを見ると
風見鶏のようですが、
ひとを見抜く力があり、

また、ひとを魅了する人物で
あったのでしょう。

多くの子どもも残しています。

有楽斎の茶道「有楽流」は続き、
有楽の茶の口伝は

「相手に窮屈な思いをさせぬこと」
「相手に恥をかかせないこと」
「相手に満足感を与えること」

とされています。

この口伝からは、
武士の教示のようなものが
感じ取れます。

有楽斎は75歳の長寿を全うします。

そして、有楽斎の江戸屋敷が
あった場所は、
いまも「有楽町」として、
その名を残しているのです。