日本という国にいる限り、
免れることはできないかもしれない。

地震、という自然災害。

それは一般市民はもとより、
天下人であってさえ、
その神経を病ませるほどのもの。

歴史をも変えてゆく。

戦国時代末期から
江戸初期にかけては、
実は大きな地震がいくつも
大地を揺るがしていた。

天正地震、
慶長伊予地震、
慶長豊後地震(別府湾に大津波)
慶長伏見地震、
慶長地震(地震の被害は少なく、
太平洋側の広い範囲に津波) 
会津地震(若松城下で死者3700人)
慶長三陸地震、
高田領大地震(越後中心と言われているが、
詳細不明)…。

このうち、秀吉自身に
大きな影響を与えた地震がふたつある。




ひとつめは、1586年の天正地震。

このすぐ前に、秀吉VS家康の
「小牧・長久手の戦い」が
行われていた。

どちらが勝ったのか
はっきりしないまま
いったん兵を引いたものの、
秀吉は家康を潰すことを
あきらめてはいなかった。

家康は上田の真田と争ったり
右腕の家臣石川数正が
秀吉のところに向かったり、
領内で大雨があったり
どうする状態。

ここでもし秀吉が攻めてきたら…。

そう、秀吉は伊勢や尾張や近江で
着々と家康攻略を進めていた。

そこに、直下型大地震、
震源は不明だが美濃から伊勢と
考えられている。

若狭湾や伊勢湾に津波も来ている。

秀吉はいっさいを放り投げ、
大阪に逃げ帰る。

美濃の拠点大垣城は全壊、全焼。
近江の長浜城倒壊、
前田利家の弟夫婦圧死、
飛騨の内ヶ島氏と領民消滅…。

一方家康の領内は
揺れたものの、ほぼ被害なし。

前線基地を失った秀吉は
やむなく和睦、家康命拾い。

そして10年後の1596年、
秀吉は再び巨大地震にみまわれる。

阪神・淡路大震災と同じ断層帯を
震源とした直下型大地震で、
9月初旬、発生時刻は深夜0時あたり。

秀吉は京都伏見に壮麗な   
伏見城を築いていたが、
10年前の教訓から耐震を 
意識させていた。

しかし、地震は起きた。

完成したばかりの伏見城は、
天守閣に二の丸、石垣や櫓も倒壊、
城内だけで600人圧死、

京都の誉れ高い寺社も
多数倒壊…。

死者は1000人とも5000人とも。

秀吉は庭に逃げ、
台所で一夜を明かすことに。

この後大阪城に戻るものの、
書状を出すことが激減、

食欲不振に陥り、痩せ細り、
粗相もするように
なってしまう。

それでも伏見城再建を命じ、
さらに豪華なものにせよ、と言う。

ちなみに、加藤清正は
ふたつの地震を経て 
熊本城の耐震構想を得たとのこと。

街はぼろぼろなのに、
お城を再建しろだってさ。

お金はそこに使うのかね。

朝鮮にもまた出兵するらしいよ。
なんのために。

人々も武将たちも天変地異に加え、
城の再建や出兵の負担を強いられ、
不満が高まっていく。

秀吉はPTSDに加え、
初老性うつや軽度の認知症に
なっていたとも言われている。

すでに実務能力は失われて
いたのかもしれない。

実際の政務は石田三成らが
背負っていた。

どんなに大きな権力を持っていても
自然の力には及ばない。 

秀吉を本当に追い詰めたのは、
2度の大きな地震だった…。

との見解も少なくない。