島崎藤村の作品、
「夜明け前」の書き出しはこうだ。
「木曽路はすべて、
山の中である…。」
藤村の故郷でもある岐阜県
美濃地方、
長野県との県境にも近い、
江戸と京都を結ぶ中山道沿いにある。
古い町並みが残り、
周囲には美しい山並みが
広がる。
江戸時代もそこは
御嶽山参りもあり、
人気の宿場町だった。
ここ木曽谷の名産は、
木曽ヒノキを始めとする
良質の木材。
古来から神社仏閣に
使われた
質の高いものが豊富にある。
しかし、その木曽の木々が
枯渇の危機にあった時代がある。
それは、400年ほど前の
安土桃山時代から、
江戸の始めの頃。
戦国時代が終わりを告げ、
新たな街作りが
全国に広まると、
木材の需要が急激に高まった。
とりわけ、城や社寺のための
良質な木材が求められたのだ。
幕府から見ると、
山の中にある木曽谷には
いくらでも木材があると
思われたのだろう。
江戸に駿府、名古屋など
各地に木材を供給し、
林業は大いに賑わった。
しかし、資源は無限ではない。
木曽の森林資源は取り尽くされ、
壊滅に近かった。
このままでは、木曽の森は
無くなってしまう。
とうとう木曽谷を治める
尾張藩は、伐採を禁止した。
ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、
クロベ、サワラの
木曽五木、と呼ばれた木々は
伐れば死罪という
重い罰を与えられた。
それまでの基幹産業を捨て、
森林保護を行う。
自分たちの代では、
もう木を伐れない。
それでも、子孫たちのために
これまでやってきたことを
変えていかなければならない。
林業で生きてきた木曽の人々には
厳しい状況となる。
木曽代官山村は、領民のために
新しい産業を奨励した。
まずは、奥州から買い入れた馬を
木曽に合う馬に改良し、
農民に育てさせる。
小型でおとなしく、
女性でも世話のできる
木曽馬は、
領地での耕作や運搬に使われ、
さかんに売り買いもされた。
また、領民たちには
許可された木材を使わせて
曲げ物や櫛などの木工品を作らせた。
女性たちが作る編笠も
農作業、漁業、林業、土木、
様々な用途に着用される
ようになり、
さらに養蚕や薬草栽培などの
新たな生きる道筋も
見つけ出された。
中山道の整備と、
旅をする人が増えると
木曽路は宿場町として
栄えることになる。
木曽の木工品は人気となり、
木曽馬や薬草とともに
求める人々が増えた。
そして、
数十年、百年とたち、
木曽の森は蘇った。
今も、伊勢神宮の式年遷宮に
使われる御神木は
木曽谷から運ばれている。
自然とともに生きてきた人々は、
ただ目の前の利益だけに
すがるのではなく、
この先も自然とともに
人間が生きていくには
何をすればよいのか、
わかっていたのだろう。
彼らの英断が
今も木曽路に美しい木々を
誇らしげに並ばせている。

