「お茶をどうぞ。」
と言われたら、
緑茶が出てくるだろうな、と思う。
コーヒーならコーヒーと
言うだろうし、
お茶、といっても
抹茶が出てくるとは思わない。
ここまで日常に沿ったものに
なるには、
やはりそうしてくれた
先人たちがいるのである。
売茶翁(ばいさおう)とは
煎茶道の祖と呼ばれ、
日本初の喫茶店を
開いたといわれる人物で、
彼がいたからこそ
いわゆる煎茶、が
人々に広まったのである。
茶は、鎌倉時代に開かれた
臨済宗の祖、栄西が
中国から持ち帰ったのが
最初、と言う説かあるものの、
実はもっと前、
平安時代に入ってきたものの、
広まらずに衰退した、とも
言われている。
鎌倉時代後期からは
茶は各地に広まるものの、
すりつぶして溶かして飲む
抹茶状のもので、
武家に愛好されるようになり、
茶の湯、茶道が確立していく。
一方で庶民に
飲まれていたのは
茶葉をアク抜きの熱湯でゆで、
乾かして煎じたもので、
色も味も香りも現在とは
違うもの。
さて。
江戸時代に入り、
明から隠元和尚が来日。
この方は禅宗のひとつ、
黄檗宗(おうばくしゅう)を、日本で
開いた方。
インゲン豆にその名を
残しているが、
もうひとつ、煎茶を日本に
持ち込んだともされている。
売茶翁はこの黄檗宗の
僧であり、
佐賀で生まれた方。
売茶翁、とはあくまで愛称、
本名は芝山さんで
法名は月海、
のちに還俗して高遊外。
各地で修業をした後、
61歳で京都で「通泉亭」という
庵を構える。
そこは、煎茶を楽しみながら
禅や人の生き方を説き、
その清貧な生き方と人格が慕われて
「売茶翁に一服接待されなければ
一流の文人とは言えない」と、
多くの有名人が集まる処と
なっていく。
池大雅、与謝蕪村、伊藤若冲などなど。
人物画をかかない若冲も
ただひとりだけ、
彼の肖像画は何枚も残している。
しかし、彼は名声を求めたのでは
ない。
通りに面したそのサロンでは
「お茶をどうぞ。お代は小判二千両から
半文までおいくらでも結構。
ただで飲んでも結構。
ただより安くできません。」
と掲げ、誰でも煎茶を
楽しめるようにした。
庵を開いた頃のお茶は、
煎じたものを煮出した茶色のお茶。
数年後、永谷園の祖、
宇治の永谷宗円が画期的な
煎茶を作り出す。
茶葉を揉むことにより、
湯を注ぐだけで
抽出できる、
美しい緑色の香り高い
緑茶が生まれたのだ。
この緑茶を江戸に売りに
いったものの、どこにも相手にされず、
最後に行った店がようやく
話を聞いてくれた。
そこが、現在の山本山。
当主の山本嘉兵衛はその緑茶の
美味しさに驚愕し、
すぐさま翌年の分も買付、
「天下一」と名付けて
大評判になる。
のちに玉露の栽培法を
考え出したのも山本家、
という山本山と永谷園の
繋がりも興味深いところ。
その永谷宗円のお茶を
売茶翁も飲み、
非常に驚いて宗円と
茶について深く語りあったという。
宗円の茶がさらに煎茶を
広めていく。
形が決められた抹茶の茶道とは
違う、より気楽に茶を
楽しめるように
始められた煎茶道。
80歳になったとき、売茶翁は
自分の茶道具をすべて燃やしてしまう。
自分の死後に、
それらが売買されたら
道具は悲しむだろう、との
思いから。
一流の書家でもあり、
その後は書を書いて生活し、
89歳で大往生。
そんな方がいたんだな、と
今日の一服をしみじみ味わうのも
よろしいかと。
