日本で育って
この方の著作に触れることなく
大人になった、という人は
果たしていらっしゃるのでしょうか。
からすのパン屋さん、
おたまじゃくしのひゃくいっちゃん、
にんじんばたけのパピプペポなどなどに
だるまちゃんシリーズ、
はははのはなし、
たべもののはなし、
地球に海、宇宙に
物理に科学、
歴史に伝承学に心理学、
絵本だけでも600冊以上、
エッセイに学術書、
絵も文章も秀逸。
この方は一体何者だった
のでしょうか。
生まれたのは1926年、
昭和が始まってすぐ。
福井に生まれ、
7歳で東京に転居します。
中学校に入学する頃には
戦争の色が濃くなり、
影響された加古少年は
飛行機乗りを志望するが、
視力が悪くて断念することに。
高校生になる頃には、
軍需工場で働かざるを
得なくなります。
高校の先生に俳人の
中村草田男がいて
(有名なのは
降る雪や 明治は遠くなりにけり
万緑の中や 吾子の歯生えそむる など)
俳句の指導を受けるようになり、
かこさとし、の里子は
俳号です。
東京帝国大学工学部に進み、
その頃は学徒動員も
始まっていたものの、
理系は徴収を
一年猶予されていて、
その間に終戦。
将来を期待されて
軍の学校に進んだ友人たちは、
帰ってきませんでした。
当時の時代の流れを
考慮すればいたしかたなかった
はずなのに、
軍人になろうと思っていたことを
自らの重大な過失であると
していました。
「家庭の状況や時代の流れに
自分を託するのは
卑怯暗愚の至りであり、
世界を見る力の無さと
勉強不足は
痛烈な反省と懺悔となって
残っている」と
語っています。
これからの子どもたちが
学ばないことによって、
自分の轍を踏ませないように、
生き残った自分の命を
そこに捧げると決めるのです。
大学時代から
社会福祉法人で
子どもたちのために
演劇の脚本を書き、
紙芝居を作り、
彼らのために働き続けます。
就職し、働き続けながら
絵本も次々と出すことに
なります。
初期の作品には、
戦争で苦労している母親や
子どもたちに配慮した
物語も多くあります。
絵本で学べれば、という
視点から、
科学絵本、とりわけ
自然科学絵本を書くことで
視点を広げてくれます。
また、
戦争が起きた理由を考えると、
経済、を切り離すことが
できないとのことで
仕事について、
お金について
考えられるものも残しています。
会社員として
昭和の高度経済成長期を
生き抜いて
工学博士学位も受理し、
児童出版文化大賞もとり、
新聞連載も持ち、
教育テレビの司会も務めるなど
多彩な活躍をしますが、
47歳で退職して
著作活動をメインとします。
とはいうものの、
東京大学、東京都立大学、
横浜国立大学などでも
教鞭を取ります。
その間に膨大な絵本や
著作や雑誌や新聞の連載や
ユネスコの講師として
東南アジア諸国を訪問したり、
実は何人いたんだろう、と
いうほどの活躍ぶりでした。
家庭も大切にし、
家に遊具を作り、
人形も作り、
紙芝居も読んでやり、
子どもをよく観察して
その子自身を信じて大切にしてあげる、
そんな子育てだったとのこと。
子どもひとりひとりを見て
自分の活躍できる場所が
見つかったら、
自分の世界を自分で
広げていけるように。
そのきっかけが自分の絵本で
あったら、
こんな嬉しいことはない。
自然は美しい。
自然は素晴らしい。
人間、失敗したっていい。
どんな子だって大切なんだ。
戦争は、二度としてはいけない。
今この瞬間が何より大事。
この方の膨大な著作、
その幅の広さ、
一人の仕事とは思えませんが、
91歳で亡くなる直前まで、
子どもたちの未来を信じて
書き綴っていたのです。
故郷の福井県越前市に
かこさとしふるさと絵本館が
あります。
心残りは、
この方が存命のうちに
御本人に会える機会を
得ようとしなかったこと。
絵本から受け取るものが
多すぎて、
それだけで満ち足りて
しまったからかもしれません。