どんな状況においてもあきらめない。
手を尽くして、生き抜いて見せる。

それを体現したのは、
江戸時代中期に
無人島に漂着して、
13年ののちに生還した
土佐の船乗り、野村長平。
 
江戸時代中期、今の高知県香南市に
生まれる。

23歳のときに御蔵米(俸祿用の米)を
運んで戻るときに嵐に遭遇。

江戸時代は大型の船を
造ることは庶民には
許されていず、簡素な船だった。

室戸岬を出た船は黒潮に流されて
遭難から12日目に
伊豆諸島と小笠原諸島の間にある
鳥島に漂着する。

そこには人はいず、
大量のアホウドリが生息していた。

漂着したのは長平含め3人いたが、
ふたりは2年以内に死亡、
長平は一人ぼっち。

火打ち石もなかったため、
火を起こすことはできなかった。

ただ、そこには捕まえるのが容易な
アホウドリたちが多くいた。

かれらが、長平の命を支えた。

長平はアホウドリを捕まえて
肉を生のまま食べた。
食料はアホウドリと少量の海産物のみ。

アホウドリが巣立ちと巣作りで
彼らがいない間は、
干した肉を食べた。

アホウドリの卵の殻で雨水をため、
1日1つだけ飲むと決めた。

羽を縫い合わせて衣服とし、
月を見て日にちを計算した。

長平が一人ぼっちになって
2年近くたったある日、
大阪からの漂着船がやってきた。

乗っていた6人は、先住者の
存在にどれほど驚いたことだろう。

更に2年後、宮崎から11人が
漂着して、18人のコミュニティとなる。

彼らは協力して食糧を確保し、
道路を整備し、ため池を作った。

4年間の共同生活中に、4人が死亡し、
まわりには1艘の船の影さえ
見当たらなかった。

その間に、彼らは船を作って、
脱出することを決めた。

自分たちの乗ってきた船と
これまでに漂着して死んでいったものが
残した船の残骸しか資材はなかった。

船は完成した。
壊れないように丘の上で
作ったので、
下ろす道も作った。

これからも漂着するものが、
現れるかもしれない、と
彼らのための記録や生活道具を
洞窟に置いた。
 
50年ほど後には、
同じ土佐のジョン万次郎が
やはり鳥島に漂着している。

長平のことを知っていたかもしれない。
ジョン万次郎は、通りかかった
アメリカ船に助けられたが。

14人は船に乗り込み、
出発した。

1797年6月8日。
船乗りであった彼らは、
海が穏やかなことを知っていたのだろう。

人の住んでいる青ヶ島に
たどりつき、
八丈島で幕府の役人と接触し、

御用船で江戸に送られ、
取り調べを受けた。

そして、彼らは各々の国へと
戻っていった。

長平は、12年4ヶ月を島で生き抜いた。

土佐に戻ったその日、
行われていたのは長平の13回忌の法要だった。

どれほど驚かれ、
喜ばれたことだろう。

長平は藩から野村、という姓を
賜り、妻子も得て、
漂流体験記を講演して
まわったという。

つけられたあだ名が、
無人島鳥平。

強靭な体力と精神が備わっていたのは
間違いないだろう。

それ以上に、彼を生き抜かせたものは
なんだったのだろう。

故郷へ戻りたい気持ちだったのか。

彼が、自分を信頼し、希望を
失わなかった理由は 
どこにあるのだろう。

今こそ、彼の講演を求めている人々が
いるのではないだろうか。