時代劇でもおなじみの鬼平犯科帳、
池上正太郎氏の作品ですが、

長谷川平蔵さんは、実在の人物です。

江戸後期に活躍した方で、
そもそも火付盗賊改方とは、
(ひつけとうぞくあらためがた)
平蔵さんはどんな方だったのか、
実は知らないで見ていたかも…。

火付盗賊改方は、江戸幕府の
警察機関の一つ。

江戸の街の治安は町奉行と
その下部の町与力、同心が
担っていましたが、
彼らのメインは事務や裁判で、
人数も少ないこともあり、

放火や強盗などの凶悪犯には
なかなか手がまわっていませんでした。

そこで。奉行所とは別にほぼ軍隊の
「先手組」という部隊が 
30組ほどあり、その中の一組が、
火付盗賊改方を請け負います。

火付改、盗賊改、博打改があり、
暴れん坊将軍の吉宗公のときに
まとめて火付盗賊改方となります。

彼らは、裁判を待たずに斬り捨てることも
でき、
歴代の火付盗賊改方長官には
冤罪や言いがかりで次々と
人々を死に至らしめた
恐怖政治をしたものも少なくありません。

先手組の仕事プラス火付盗賊改方も
兼ねるため大変で、
任期は1年間程度、
200年間で200人の長官が
いましたが、
主人公の長谷川平蔵は、
実に9年間に渡って勤め上げた方です。

ちなみに長谷川平蔵は、
鬼平の父と子を含む親子3代の
通称で、
鬼平は長谷川平蔵宣以(のぶため)です。

ただ、この中では鬼平を
長谷川平蔵とします。

ちなみに鬼平は、池波正太郎先生の 
つけた名前なので、
当時の人に言っても
通用しません、念のため。

平蔵の父も火付盗賊改方でしたが、
犯人をすぐに殺すことなく
現場検証をしたり証言を取ったりして
真実を追究する姿勢を取っています。

若い頃はそんな父に反発したのか、
不良仲間とつるんで
酒や遊興につぎ込んでいたようですが、

家柄も良かったし、 
仕事についてからは
活躍し始めます。

火付盗賊改方の長官になったころは、
賄賂で有名な田沼意次が
老中で、平蔵は彼には
認められていたとのこと。

平蔵の功績は大きく分けてふたつ。

まずは、江戸の治安を脅かす
大盗賊を処分したこと。

神稲小僧、しんとうこぞうと呼ばれた
剣の使い手でかなり知恵も回る男でした。

幕府の役人を装って
押し込みをしたり
関所を破ったりし、
押し込んだ家のものも惨殺して
いました。

平蔵は彼らを捕縛。

また、葵小僧と呼ばれる、
小説にも出てくる一味も実在です。

黄門様の控えおろーでも有名な
徳川家の家紋、
葵の御紋の提灯で江戸を荒らしたため、
葵小僧。

押し込みをして、
さらに婦女暴行もする凶悪犯で、
彼らも平蔵に捕まり獄門となりました。

ふたつめは。

犯罪者を捕まえて、
平蔵は考えました。

奴らを捕まえ続けるよりも、
犯罪のない街を作るべきである。

江戸にやってきて、仕事もない奴らが
生きていくために
犯罪に手を染めるのだ。

その頃の老中は
寛政の改革をした、松平定信。

改革の一環として
「人足寄場」にんそくよせば、という
犯罪者の更生施設を作りました。

ただ収監するだけではなく、
出所してから仕事を得て、
生きていけるようにする。

刑務所であり、職業訓練所でもあり、
ハローワークでもあるという
施設だったのです。

しかし、運営資金が足りません。

平蔵は幕府から支給されたものを
相場につぎ込んで増やし、
それを資金としました。

財テクの才もあったのですね。

平蔵は江戸の市民たちに
大変な人気ではありましたが、

不遜な態度だったから、とか
田沼のお気に入りだったため松平に嫌われたから、とか、
優秀すぎて他の人には替えられなかった、
などいろいろ言われていますが、

火付盗賊改方は本来は
1年で終わって
その後の出世街道の過程の
一つに過ぎなかったのに、

9年もこの役職につき、
病に倒れて辞職してから
3ヶ月、51 歳で世を去っています。

平蔵も父と同じくその場で
斬り捨てることは少なく、
奉行所に預けて裁判を受けさせたため、

判例が多く残され、 
後世の参考になったとのこと。

なくなる前には将軍直々に
薬も届けられ、
その働きは、広く認められて
いました。

厳しくも温かみがあり、 
文武両道だった平蔵は、まさに
鬼平そのものでした。

罪を憎んで人を憎まず、
目の前の事象だけにとらわれず、
本当の原因はどこにあるのか、

人が安心して暮らせるには
どうしたらよいのか、

鬼平の問いかけはなかなか
今もって解決しそうにはありません。