江崎グリコは今年で
100周年。

現在、うめだ阪急と
高島屋にて、
グリコ100周年展を
やっているそうで、
おもしろそう。

グリコのおまけは
まだまだモノが
少なかった頃、

ささやかだけれど
大きな楽しみだったし、

紙で出来た家もあって
(売っていたのか、
もらえたのか
定かではない)
それでずっと
遊ぶことが出来たな…。

「栄養菓子」として
国民に伴走し続け、

いくつもの困難を
くぐり抜けてきた
この企業を
一代で作り上げたのは、

佐賀県出身の
江崎利一(えざきりいち)。

*ついでに、森永の創業者も
佐賀出身です。
長崎シュガーロードの
影響もあるのか!?

1882年生まれ、
優秀でしたが、
家は豊かではなかったため、
進学せず、働きます。

19歳の時に父が亡くなり、
母と5人の弟妹を
養うことになり、
家業の薬種業を
継ぎます。

利一は早朝の塩売りや
登記代書で借金を
返し、貯蓄もします。

大阪に出た時に
安く売られていた
薬品を郷里で売ったら
旅費を上回る儲け、

商売はアタマだ、と確信。

ある時、佐賀では
大阪から
瓶詰めされた葡萄酒を
買って、
空き瓶をまた送り返して
いることを知る。

それならば…。

利一は樽で葡萄酒を
仕入れ、
それを瓶詰めして
売ることを始めます。

九州一円に
販路は広がり、
30代前半だった利一は、
財産を築き上げます。

利一は、何気ない
風景から商売の
ヒントを得ます。

またある時、
地元有明海で
輸出用の牡蠣を
煮ているところに
出くわします。

煮汁を捨てているのを
見て、
たしか煮汁には
グリコーゲンが
含まれているはず、と
気付きます。

(グリコーゲンは
多糖類でエネルギー源と
なるもの。
疲労回復、集中力、
血糖値調整の効果あり)

九州大学で調べて
もらったところ、 
予想通り大量の
グリコーゲンが
確認されます。

廃棄物利用になるし、
これを使おう。

この頃、長男がチフスに
かかり、
生死の境をさまよい、

グリコーゲンを
与えてみたところ、
奇跡的に回復します。

グリコーゲンは
薬にするべきか…。

この時、医師に

「予防こそ治療に勝る。
病気にかからぬ体を
作ることこそが大切だ」

と、助言を受けて、
決める。

こどもたちのために
作ろう。

グリコーゲン入りの
キャラメルを作る。

そして、大阪に出て
このキャラメルで
勝負をすることにします。

名前は、グリコーゲンから
グリコ。

地元の八坂神社で
子どもが遊ぶ姿を見て、
万歳ゴールは
いいなあ、
よし。
あの姿を使おう。

と。大阪に出てきたものの、
無名の菓子が
いきなり売れるはずは
ない。

利一は、名門百貨店の
三越に売り込みます。

「下から石を
積み上げるより
山頂から石を
転がした方が 早い」

最初は相手に
されませんでしたが、
利一のしつこさに負け、
おいてもらえることに
なります。

゛宮内庁御用達゛的な
信頼付けになり、
グリコの知名度は
あがります。

この、三越に置いてもらえた
1922年2月11日を、
江崎グリコの
創業日としています。

三越に置いてあるという
ブランド力も手に入れ、
取り扱いは
増えていきます。

子どもたちを
もっと喜ばせるには。

利一は考えて
おもちゃをつけることに
します。

オマケ。
ではなく、
食べること遊ぶこと
どちらも大事という目線。

ここから
様々なおもちゃが
生み出されていくのです。

順調に規模を
伸ばしていったものの、

戦争で工場も
事務所もすべて失います。

「さすがの敗戦にも
焼けなかった
最大の資本がある。
それは、グリコという
看板である。」

利一60歳を過ぎての
再出発でした。

利一は言います。

「商売は儲けたり
儲けさせたりの仕事である。
(中略)
相互利益こそ、
商売の真髄であり、
要諦であろう」

「販売の秘訣といっても
別にこれということは
ないが、

製品に特徴を持たすこと。
そしてその特徴を
徹底的に
宣伝することである。」

「商売とは、まことに難しく、
不思議なものだ。
どんな小さなところに
発展の鍵が
潜んでいるかわからない。
大切なのは、
それをどう見つけ出し、
どう活かすかということだろう」

そして、江崎グリコは
日本を代表する
菓子・食品メーカーへと、
成長していくのです。

「事業奉仕即幸福。
事業を道楽化し、
死ぬまで働き続け、
学び続け、
息が切れたら
事業の墓場に眠る」

その言葉通り、

利一は97歳で
亡くなるまで
仕事をしました。

かのグリコ・森永事件が
起こるのは、

利一が亡くなってから
2年後のこと。

彼が生きていたら、
事件の展開も変わって、
解決していたのかも
しれません。