深く豊かな森に囲まれ、
自然とともに生きてきて、
それがいまでも
受け継がれている地、
飛騨高山。

広葉樹も針葉樹も
その地に広がり、
水も豊富で木の実や肉も
手に入りやすいため、
縄文時代から人々が
住居を構えていました。

とはいえ、
山に囲まれているため
人口は多くはなく、
昔から
「いらない人はいない」と
みなで力を合わせて
作業し、

外から入ってきた人も
歓迎する文化が
形作られていました。

奈良時代。

税は「租・庸・調」に分けられ、

コメを納める租よりも、
労役と特産物を納める
庸と調が重いものでした。

優れた木工集団を擁する
飛騨の国には
庸と調が免ぜられ、

その代わりに
人を派遣することを
求められました。

「飛騨の匠(たくみ)」
制度の始まりです。

彼らは薬師寺・法隆寺夢殿・
東大寺などの建築を支え、
平城京・平安京の造営に
欠かせない人々と
なりました。

今でも残る
奈良県の飛騨町は、

当時の飛騨から
やってきた人々が
集まって住んだところと
考えられていますし、
万葉集にも飛騨の匠を
引用した
恋歌が残されています。

武士政権が起こると、
さらに全国で
飛騨の匠たちは活躍します。

鎌倉・室町時代を生きた
藤原宗安は
飛騨匠の祖として
崇められていますし、

伝説となった
韓志和(からしわ)という

唐の国の書物に
登場する人もいます。

韓志和は、
彫った鶴が本物になり、
鶴に乗って
唐の国へ行き、
皇帝に仕えました。

再び鶴に乗って
帰国したところ、

鶴が筑前国で矢を射られ、
鶴の羽が堕ちたところが
羽形=はかた、博多という
地名になったということ。

(博多の地名の由来は
諸説あります。)

江戸時代に葛飾北斎の
挿絵の読み物になり、
大評判になったそう。

戦国時代に飛騨匠たちが
16年をかけて
建てた高山城は

「日本の5指に入る名城」と
称されましたが
(当時4-5万の城がありました)
1695年に廃城、

しかしその前に
移築された部分が
のこされています。

江戸時代には森林と鉱物が
豊富なことから
幕府の直轄領とされ、

武士が少なくなって
自治が進みます。

旦那衆によって
現在も行われている
高山祭の
見事な屋台が作られ、

邸宅は京の雅に江戸の強さ、
それをなすのは飛騨の匠という
贅沢なもの。

多くの種類の樹に恵まれた
飛騨の地の匠たちは
樹をそのものを
活かすことが
非常に得意で、

それがさらに彼らの名声を
高めることになります。

樹そのものを活かした
美しい建築を
得意とし、

工芸品としても一位一刀彫や、
木肌を活かして
透き漆を施した
塗りものである
飛騨春慶といったものも
飛騨の特徴です。

ちなみに春慶塗を命名したのは、
直轄領になる前に
飛騨の領主の家に
生まれた茶人、宗和。

彼の影響で、飛騨高山は
京都の文化を取り入れて
洗練されていき、
街並みも京都に倣った
碁盤目となっていきます。

今でも飛騨高山は
趣のある街並みに
美しい工芸品に家具の数々、
華麗な祭りに、
その自然で
内外から多くの人々が
訪れています。

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