東京都品川区にある
曹洞宗江戸三ヶ寺のひとつ、
泉岳寺。
徳川家康が創建したもの
ですが、
焼失し、復興も大変。
家光の命で、毛利・浅野・
朽木・丹羽・水谷の
五大名に再建させたもの。
毎年12月14日は、ここは
大勢の人で賑わいます。
江戸時代に討ち入りをした
赤穂義士の面々のお墓が
ここにあるのです。
そして、討ち入りをした日が
1703年12月14日。
泉岳寺には多くの人が
焼香に訪れ、
義士の扮装をした人々が
吉良邸跡から泉岳寺まで
行列をする。
(今年は規模を縮小)
義士たち同様、吉良上野介に
対する供養も、される。
(こちらは両国ですが、
今年は中止)
さて、今はドリフの松の廊下
コントもなく、
若い人の中では知名度の
低くなった忠臣蔵の
話を簡単に。
江戸幕府が開かれて
約1世紀。
1701年3月14日。
江戸城内の松の廊下にて
赤穂藩主(兵庫県)
浅野内匠頭長矩35歳が、
旗本の身分高い
吉良上野介義久61歳に
突如斬りかかる。
上野介は軽傷、
内匠頭は取り押さえられ
その日のうちに切腹、
お家は取り潰しと決まる。
大名への措置として
その日のうちに
切腹とは異例であり、
内匠頭が上野介に
斬りかかった真の理由も
未だに謎。
赤穂藩の藩士たちは、
一日にして生活の糧を
失うことになる。
元々は、お家再興のために
尽力していた
筆頭家老大石内蔵助。
半年ほどして
再興はならないと知る。
この時点で、ほとんどの
藩士は次の仕官先を
探しに去っていく。
残ったものたちは、
仇討ちをし、自分たちも
果てる覚悟をする。
(成功しても幕府に
認められる可能性は低かったため)
仇討ちに賛同したものは
江戸に入り、
吉良上野介の動きを
探る。
そして、内匠頭の月命日でもある
12月14日に討ち入り決行。
上野介の首級を挙げる。
上野介の自邸から、
内匠頭の墓がある
泉岳寺まで歩き、
内匠頭の墓前に
上野介の首を捧げた。
江戸の市民は忠義だ、と
拍手喝采だったが、
幕府としては称賛する
わけにはいかない。
そもそも内匠頭は江戸城内で
騒ぎを起こして取り潰しに
あったもの、
そして47名もの武士が
合議して武力行動に
出たことを許すことは
できない。
(将軍綱吉は、あっぱれじゃ、と
誉めたらしいが、
元々はこの人がよく話を
聞かずに切腹させてしまった
ことが原因です)
義士たちは、世間の評判も
考えていたのか、
泉岳寺で一斉に切腹、という
行動を取らず、
幕府の沙汰を待つことに。
そして、吉良家も断絶、
赤穂義士46名は切腹。
ひとりいません。
寺坂吉右衛門というものですが、
彼は生き延びます。
使命を負ったから、とか
足軽の身分なので
入れてもらえなかったなど
諸説ありますが、
彼は討ち入り後に
姿を消しています。
その義士たちの評判
高く、人形浄瑠璃、
歌舞伎となって話は
伝えられたのです。
もちろん幕府のあるうち
なので、
時代設定を変えてあります。
仇討ちが素晴らしいのでは
なく、
ある日全く自分に非のない
ことで、生活を
奪われる。
もとに戻る可能性もない。
そんな理不尽の中で
希望もない中で
誇りをかけて
行動を起こした武士たちの
悲しい物語が
人々の心を打ったのでしょう。
泉岳寺の義士たちの
お墓は、
思ったより狭いところに
集められています。
若者であり、壮年で
あった彼らが
実在したと感じられます。



