銀座のシンボル、
四丁目交差点にある
和光のビルの時計台。

曲線を持つ優美な建物。
時計は、正確に東西南北を
向いている。




この時計台は2代目。

諦めない精神で
時計台を作り、再建したのは、

日本の時計産業の
基礎を築いた
服部金太郎氏。




急がず休まず、
良いものを作り、
どんなに困難であっても
必ず約束を守る。

人として大切なものを
守りながらも
職人として、商人として
成功を収めた彼の足跡を
見てみましょう。

服部金太郎氏は、
幕末の江戸京橋生まれ。

三男であったため、
奉公に出て、その時に
時計店を見て、時計商を
志す。

雨の日でも、修理という
仕事がある。
大切な「時」を無駄に過ごさなくてよい。

というわけで
時計店で修行を積み、
自らも時計店を開きます。

その間、奉公した店が
たち行かなくなると
自分の貯蓄を差し出すことも
厭わなかったそう。

金太郎が開業した頃、
欧米からの懐中時計が
人気に。

欧米との取引を始める。

このころ他の商店では
日本の商慣習である
「つけ」がまだ幅を効かせていて
外国商館では不評。

金太郎はどんなに資金繰りが
厳しくても、かならず
30日以内に支払いをし、
信用を得て
商売を拡張。

舶来時計の扱いで
店を広げた金太郎、
創業6年目にして

銀座に時計台のある
店を設立。




その頃には、国産の時計を
作りたいと考えていた
金太郎。

天才技術者、吉川鶴彦を
迎えて
工場を設立。

「精巧な製品」を作るという
使命のもと、
「精巧舎」の社名に。

また、人材育成にも熱心で
学問も学ばせつつ
技術も学ばせた若者を
養成する。

「精巧な時計」は安物ではない。
ブランディング、マーケティングの
重要性もよく理解していた。

良いものを、適正価格で
提供する価値を
見抜いている人でした。

金太郎の事業はますます
広がり、
最新鋭の工場も作り、
国内シェアも高まっていく。

国産の腕時計もついに
作れるようになり、

第一次世界大戦で、
空前の好景気。

しかし。

関東大震災で、
すべてを失う。

金太郎62歳。

それでも金太郎はあきらめない。

翌月には仕事を再開。

預かっていた修理依頼品
1500個をすべて
新品で賠償。

10年後にはあらたな
時計台を設立。
これが今、銀座にある
和光ビル。




社会事業にも熱心だった
金太郎、
新たなビルが出来た翌年に
惜しまれながら他界します。

「常に一歩先に」

これが金太郎の精神。

常に一歩だけ、先に進む。
進みすぎては、世間と離れてしまう。

しかし、一歩先を歩まねば
商人としてやっては行けぬ。

先を見据えて、
足元を見ることも忘れず

誠実であることを
大切にしていた金太郎。

SEIKOはその精神を
受け継いで、今も
新たな歩みを続けているのです…。