
他人と共生しようとすると、
どうしてもそこには不自由が生じる。
自由を求めれば、
孤立を逃れ得ない。
他人と自由に共生する。
それは不可能なのだろうか。
どうすれば可能になるだろう。
「私」と「私」が出会って
互いを活かしあい、「私たち」を
形成する。
人間関係をギブ、支援する関係から
始めること。
まわりをいかす、すると
まわりにいかしてもらうことになり、
自分をいかすことになる。
回り方は反対でもいい。
やりたいことが明確なら
自分をいかし、できないことは
まわりの力を借りて
まわりにいかしてもらう、
結果的にまわりをいかすことになる。
互いが互いを利用し合うと、
関係性は破壊されるけれど、
互いが互いを支援し合えば、
関係性は育っていく。
利他的な支援を行うことが
自己の利得を最大化でき、
つまり
自己の利得を最大化させたいならば、
利他的な支援は必須なのである。
そうだろうか。
そんなのは理想論に過ぎない。
現実社会は厳しいのだから。
そうだろうか。
そもそも社会、とはsocietyという
言葉が日本にやってきたときの
訳語であり、
「人際交流」という候補も
あったのだ。
私とあなたの関わりの集合体、
ひとつひとつの関わり、
ひとつひとつの交換の集合体が
社会、なのである。
人と人との関わりあいを
大切にしながら、
経済的にも整う、
それは両立し得ないのだろうか。
理想論なのかもしれない、
しかし17年間それを立証し続けている
とある場所がある。
東京都、
中央線西国分寺駅を降りて2分、
そこにまるで森の中の秘密基地を
切り取ってきたようなカフェがある。
「クルミドコーヒー」
食べログで日本一に輝いたカフェでもある。

この店を開いたのは
影山知明氏。
東京大学法学部を出て
マッキンゼーに勤め、
ベンチャーキャピタルの世界を通り、
出身地の西国分寺に
ここを開いた。
カフェの経営は遊びではない。
慈善事業でもない。
しっかりと経済を回しながら、
他人とともに自由に生きる
関係性を持てないか、
カフェがその役割を果たせないか、
実践しながら、
クルミドコーヒーは
多くの人を惹きつけてきた。
クルミドコーヒーのコーヒーは、
安くない。
クルミドコーヒーのスイーツも、
安くない。
それでも人々はクルミドコーヒーに
集う。
理念は、
「ゆっくり、いそげ」。
そこにあるのは
「特定多数経済」の構想だ。
不特定多数、では安ければ良い、
の経済になってしまい、
特定少数、では経済的に成り立たない。
(特定少数とは金融用語で49人以下)
特定多数とは、
ある程度の複雑な情報の
やり取りが可能な、
直接、間接に声が届く距離にあり、
ひとつの事業を支えられるくらいの
規模の買い手を指す。
地域の顧客や
口コミやネットで知って
足を運んでくれる範囲の顧客層、と
みれば良いだろう。
特定多数の参加者の間での
価値交換を可能にできれば、
やりたいことをやりつつも、
経済的にも安定する。
クルミドコーヒーの場合は、
5000人。
さて、くりかえし訪れたいカフェとは、
どんなところだろう。
クルミドコーヒーにあるのは
心地よい空間、
美味しい珈琲、
手をかけて作られたスイーツ、
スタッフの笑顔。
テーブルの上には
ご自由にどうぞ、と置かれた
長野県東御市の立派な胡桃。
それをきのこ型のくるみ割りで
割って食べるのもたのしい。

いいものを提供してもらった。
確かにお支払いはしたけれど、
あれではむしろ安かったかもしれない。
そこに発生するのは、
「健全な負債感」である。
価値の提供と支払いの交換を、
「等価」にしてしまったら、
駄目なのだ。
もう来てはくれないのだ。
健全な負債感を背負ってしまったら、
また来てしまうのだ。
その健全な負債感の集積は、
やがて「看板」となり、
新たな特定多数の人々を連れてくる。
まずは「贈ること」、つまりギブする
ことから始めなくてはならない。
贈与論、という考え方がある。
あらゆる社会文化活動は
贈与とそれへの給付、という
交換によって成り立っていると。
つまり、贈ること、受けること、
返すことは人間社会の基本なのだ。
カフェにとっては
一杯のコーヒー、一皿のケーキ、
そんなひとつひとつの仕事に
嘘をつかず、
心を込めて手間暇惜しまなければ、
受けてくれる人の心に必ず届く。
自分が目の前の相手に
どう力になれるのか。
モノやコトの向こうには
ひとがいる。
ありがとうを伝えるために、
クルミドコーヒーの周辺では
「ぶんじ」という地域硬貨も
巡っている。
ありがとうを贈る、受け取る。
受けてくれる人がいるから、
贈り手は育っていく。
お金は、受け取るための道具でもある。
人の仕事を、きちんと受け取ろう。
そして、贈る、受け取る、の
流通が増えたら、
経済は成長していくのでは
ないだろうか。
経済成長において、
時間はかけないことが正しいと
されている。
しかし、すべてを効率化していく
現代社会において、
傑作や定番、が生まれにくくなっている。
傑作とは、時間がなければ
傑作になることができず、
定番とは、時間がかからないと
定番になれない。
例えば古典というものは
読みつがれ、様々な解釈をされ、
演劇になり映画になり
その存在はゆっくりと広がり、
そうして古典と呼ばれ得る。
傑作も定番も生まれにくい現在、
われわれの歴史そのものも
失われつつあるのかもしれない。
時間は、味方にできるのだ。
自分たちが時間をかけ、
存在を傾けた手間暇かかった
仕事をちゃんとすること。
受け取り手は、
いい時間を過ごすことができる。
時間とは戦う相手ではなく、
時間とともにある働きをすれば、
時間は必ず味方になってくれる。
時間を味方にするには、
人間関係をギブから始め、
目的や目標を絶対視しないこと。
あるいは、
あらゆる仕事の正体は
時間と言っても良いのかもしれない。
お金以外のものも利益であり、
大事な人にとっての利益も
共に考えること。
その大事な人びとが
特定多数を構成する。
お金以外の価値を見直し、
ひとつひとつの仕事に、
時間と手間をかける。
目の前にいる人は、
自分の目的達成のための
存在じゃない。
支援するために力を尽くそう。
このサイクルは、
経済を縮小しない。
お金だけではない、
「価値の総和」を
大きくすることによって、
人の可能性を引き出し、
仕事を深め、その結果として
世の中の金銭的価値そのものも
拡大していくのではないか。
それを立証していくためにも
クルミドコーヒーは
存在し続けていく…。
※ ※ ※
この世界を味わってみたい方は
東京 西国分寺/クルミドコーヒー
国分寺/胡桃堂喫茶店へ。

また、クルミドコーヒーの
師匠としてこの本にも出てくる
カフェ マメヒコは
東京 三軒茶屋
東京 銀座
群馬 桐生
兵庫 神戸 に店舗があります。

クルミドコーヒー、カフェマメヒコに
珈琲豆を提供しているのは
札幌で3店舗を展開している
菊地珈琲店。
ゆっくりいそいでいる素敵な店、
まだまだありそうです。