第65代、花山天皇。


 17歳で即位するものの、 

藤原道長の父である兼家と 

兄、道兼の共謀により、 

19歳で出家、退位することとなる。 


 心穏やかではいられなかったであろう 

若き法皇は、

新帝の御即位の日に 

都を出て姫路にある 

書写山圓教寺に向かう。





 書写山圓教寺(えんぎょうじ)は、

 性空上人(しょうくうしょうにん)が 

開いた天台宗の寺院。 


 「西の比叡山」と呼ばれ、 

(都からみてのことかと思われる) 

播磨の閑静な山の中に立つ。 


 当時の京都文化圏の

 最果てとされる場所にある
書写山圓教寺。 


 性空上人は、栄華とは距離を置き 

御仏に仕え、
六根清浄と呼ばれる、

 欲や迷いを断ち切って

心身が
清らかになる状態に

到達されたと
されていた。 


 花山法皇の心は 

上人との対話によって 

癒されたと見え、
その後もここを訪れている。


 もうひとり、この圓行寺に 

名を残しているのが、  

情熱の歌人、和泉式部。


 和泉式部も年を取り、 

この世の無常、来世の不安に 

心穏やかならぬ日々を
過ごしていた。


 そこで、性空上人にお会いしたいと 

書写山に向かったのである。 


 淀川を下り、播磨に着いたが、 

すでに寺の門は閉ざされている。 


 和泉式部は
「くらきよりくらきみちにぞ

いりぬべき
 はるかにてらせ山のはの月」


 (私は暗い道をより暗い道へと
歩いています。

山の上の月に明るく
照らしてほしいものです。 

 = 迷いの迷宮から深い暗闇に
入りそうな私、 

どうか月が闇を照らすように 

私を導いてください。) 


 と、何度も繰り返し詠むと 

感じ入った上人が門を開けて 

対峙してくれた…。
というもの。

 (二人の年齢から創作と見られている)


 更に源義経の従者である 

武蔵坊弁慶もここで修行して
いたと

言われている。 


 今も歴史に名を残す人々が訪れた

 圓行寺は、

すでに1100年以上の
歴史を持つ。





 彼らのように心の平安を
求めて、

この寺の門を叩いた
人々が、

どれほどいたことだろう。 


 現代でも書写山の魅力に

 ハマったのが、 

映画「ラストサムライ」の 

ズィック監督。 


 伽藍を見てたちまち佇まいに

 魅了されたとか。 


 ここに至るには、 

本来なら400㍍近い高さを登らなくては 

ならないのだが、 

現代の有り難さで 

ロープウェイが運行している。





 子どももお年寄りも身体が 

思うように動かない人々も、 

訪れることができる。


 晴れていれば四国まで

 見えるという絶景を
楽しみながら、

 山門に向かう。


 仁王門から十妙院までの東谷、

 摩尼殿(まにでん)までを中谷、 

奥の院までを西谷、と 

大きく3つに分かれている。 


 摩尼殿は清水寺に似ているとされ、 

大講堂、食堂などは重要文化財。 

 それどころか、

ここにたる
建造物、

仏像のほとんどが 

国や県、市、いずれかの 

指定重要文化財となっていて、 

これまでの時代の職人たちの 

見事な手腕を感じ取ることができる。


 季節に現れる美しい自然の風景を 

堪能し、
1000年の時を超えて

いまなお
存在してくれるものたちに 

感嘆する。 


 また、精進本膳料理を予約すれば 

幻の書冩塗りの器で 

味わうこともできる。


 坐禅や写経、法話など 

心を修めるための一日修行を

 することもできる。 


 本当はそれを
やりたいけど、

時間がない、
そんな時でも写経、

それも
般若心経を1時間かけてやるものと 

花びら型の紙に少しかかれた 

10分ほどで終わる写経を
することもできる。


 これまでの時代を過ごしてきた、 

どれほどの身分の人であっても 

不安や苦しみから逃れ得ることは 

できなかった。 


 それを1000年以上に渡って 

見守っていた書写山圓教寺、 


彼らと同じように
ここを訪れれば、 

ふっと穏やかな心持ちが 

やってくるに違いない。