家出をしてからの詳細はまた折を見て…
そんな、淡い時間もあった…ということで、一旦、はなしを逸らす。
若い結婚のわけは「デキ婚」ではなかった。
むしろ、しばらく授からなかった
私は子供が大好きだったから、17歳で出産するのが希望だった。
だが、無理だった。でも19才で、それは叶った。
第一子。長男。
21才で次男。
24才で三男。
仕事と子育ての両立は大変ではあったが、若さと周囲の手に恵まれて、
育児ノイローゼなる問題もないまま、みんな元気にすくすくと育ったくれた。
だが、前述のとおり、色んな問題を抱えることとなり、親を含む我が家は崩壊。
当然、離婚へと、まっしぐら。いよいよ、カウントダウンが始まる。
その時は、結局、実家住まいだったが「家庭内別居」も2年が過ぎてた。
愛情が薄れていたのもあるが、とにかく多忙で、わたしの睡眠時間は一日、
1~2時間程度だった為、布団で眠ることができなかったのも大きな理由だった。
母はそんな私の姿を見て、冬はコタツの下に布団を敷いて、ささやかな
睡眠のサポートをしてくれた。
家業は取引先の倒産により傾き、借金まみれで身動きが取れない状況と
なってしまっていた。
当然、夫婦で働いても給与が出ることは無く、手持ちの金などあるわけがない。
よって、離婚を決めた時、あのニックキ・オヤジに頭を下げて、
「子供と家において欲しい」と懇願したが、あっさり拒否され、
のちに私は無一文で、独り家を追い出されることになるのだ。
元亭主は父より50万円ほど渡され、それを元に家を去った。
あの状況で一体、どこからあのお金を捻出したのか?不思議だった。
父からすれば、周囲の目もあるが、何より、12年もいてくれた「義理の息子」への最後の誠意を示してくれたのだろう。
そして、自分から言い出した離婚の着地点が、自分の命より大切な可愛い我が子との別れになってしまうなんて、想像だにしてなかった。
けど、何故かあの時、父の声なきエールを感じていた。
「子供のことは心配しないでいいから、頑張ってこい!」と。
だから、それ以上、何も言おうとしない自分もいた。
現に、借金まみれで、まるで収入のない我が家に私がいても、
「宝の持ち腐れ」のようにも思ったし、私は初めて「外の世界」で
働くことを決意した。
初めて手に取ってみる求人雑誌。
私の選択肢は限られていた。
「中卒」「学歴不問」「営業」この三点だけだった。
そして、投資用マンション販売の不動産会社、二件に履歴書を送った。
学歴欄はたったの2行。
この時、わたし、29才。
本当の意味での社会に対する勝負に挑んだ気分だった。
そして、面接。
かなり気に入られたようで、すぐの返事を求められ、断り方を知らなかった私は、
アッサリと、その会社に就職が決まった。
条件は悪くない。あとは「結果」を出すだけだ。
未知の世界ではあったが、根拠のない、自信だけはあった。
そして、子供たちに打ち明けなければならない「とき」がきた。
私は、幼い息子たちを正座させ並べて、こう切り出した。
「よく聞きなさい。ママとパパは離婚することになったの。そしてママは将来、
「社長」になるために、よその会社で勉強しながら働くことになったの。
そこでね、毎日、遅くなるから、お仕事の日はおうちから通わず、会社が用意してくれた所からかようことになったのね。だから、あなた達は、じぃじと、ばぁばと、
お留守番になるからね」。と、ここまで問答無用に、一気にじゃべり倒した。
辛かった。
泣きたかった。
胸が張り裂けそうだった。
でも、今ここで私が泣いてしまったら、この子たちは一気に不安になる。
だから、”こらえる”しかなかった。
なんせ、この「離婚」はすべて、わたしのワガママ。
子供たちは、きょとんとした目で、ただ、私の顔を見ているだけだった。
恐らく、幼すぎて、急すぎて状況が呑み込めてないのだろう。
でも、一番下の息子が最後に微笑みながらこう聞いてきた。
「でも、ママ、お休みになったら、かえってくるんだよね?!」
「もちろん」と、わたし。…ウソだ。ウソだ。ウソだ、うそだ、嘘だ!!!
「ママは、オレたちのこと、あいしてるんだよね?!」
もう、やめてーーーっ
「本当はね、いつ戻ってこれるかなんてわからないんだよ。」
こころの中でつぶやくわたし。
もう胸の内はボロボロだった。
ニコニコ笑顔になっていく息子たちを前に、私はただ、
毅然とした態度を取るしかなかった。
「ママを信じなさい」
この時、
長男、10才、小学校5年。
次男、 8才、小学校3年。
三男、 4才、幼稚園の年中さん。
この時、「泣き虫・メスライオン♀」が生まれたのだ。
私は父方の叔母に事情を話し、お金を借りた。
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そして、わたしが家を出る日の朝…。
前の晩は雨が強く降っていた。
翌朝は快晴だった。
小学校組の息子たちを最後に見送るため、通りまで出て、
その後ろ姿を見送っていた。
道路は前日の水滴をおび、キラキラと輝いていた。
笑顔で手を振りながら、何度も振り返る息子たち。
溢れる涙で、息子たちの姿も歪んで見えてきた。
大粒の涙がどんどん、どんどん、次から次へと出てくる。
その時、駆け足で去って行った、長男の足がピタリと止まり、私の方へ戻って来た。
そのままの勢いで私に抱きつき、「ママ、大好きだよ!お仕事、頑張ってね!」と、だけ言い残し、再び光の中へ駆け足で遠くなって消えて行った。
わたしはそのあと、道路に座り込み、泣き崩れた。
みち行く人も不思議そうに見ていた。
うちの職人さんたちも、悲しげに私の姿を見つめていた。
そして立ち上がり、部屋へ戻った。
玄関には出発の荷物が置いてある。
部屋にはもう上がらない。
その向こうに母が何も言わず、チビを抱いて座っていた。
まだパジャマ姿で寝ぼけまなこの、三男坊をわたしは無言のまま、
強く、強く抱きしめた。
声を出さずに泣いた。泣いた。泣いた。
そのあと、息子に泣き顔を見られぬよう、母の元へ息子を押しやり、
わたしは下を向いたまま、何も言わない、言えずにいる父と母に、
一礼をして家を去った。
恐らく人生で初めて、「一番、辛かった出来事」だった。
これが、「離婚」の現実であり、その一歩なのだった。
この先、とんでもない出来事が待っていることを、この時は知るよしも無かった。
「計画通りの人生を諦める覚悟を持て。この先に待つ人生を生きるために。」
つづく…
■■わりと大切なお知らせ■■
虐待/貧困/父不倫/中卒/早婚/性病/離婚/倒産/癌宣告/精神疾患/起業/愛人生活…
などなどなど・・・(過去記事一覧よりご覧頂ける通り)
ノンフィクションな私の
破天荒な人生
を
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この物語は、私の人生を淡々と描いているものです。過度な期待はしないで下さい