「壊れた大人を修理するより、強い子供をつくる方が簡単だ」

                     by プレデリック・ダグラス

 

この言葉が私にふさわしいかわからないが、少なくとも私はこの言葉が好きだ。

 

わたし…現在54才と7か月。

改めて言うが、息子三人、孫四人。

母、81才存命。姉妹も交流はあまりないが存命。

父は約三年前に死去。

 

昭和44年、三姉妹の次女として、都内のとあるアパートで生まれた。

父の事業は、一向にうまくいかず、病院での出産は経済的に無理で、

お産婆さんが来ての出産だったそうだ。

その際、子宮が傷ついて大量出血をし、死にかけたそうな。

 

母の巨乳は見掛け倒しであったらしく、母乳はほぼ出なかった、と聞いている。

ミルク代にも事欠く日々が続いた、とも呪文のように言い続けていた。

それに反し、私はホルスタインかと思うほど、よく乳が出た。

張ってくるタイミングで乳を飲ませると、赤子の息子たちは、

呑み込むのが追いつかず、よくむせていた。

なので人工ミルクとは無縁の中で息子たちは私の乳で育った。

 

物心ついたころの記憶に残っているのは、土ボコリを巻き上げる道路、

近所のお風呂屋さん、今では珍しい三輪自動車で、近所から廃材を回収し、

湯は焚かれ、長い煙突から立ち昇る煙が、開店の合図だった。

野良犬や野良猫なんかは、当たり前のように徘徊していた。

 

今と違って商店街は活気づいており、豆腐を買いに行くときは鍋を持参して、

おつかいに行ったのを覚えてる。そして各店、閉店時間も早かった。

 

私たちは夕方四時開店のお風呂屋さんに並んで、

シャッターが開くのを待つのが日課だった。

何故ならば、母が「店(自分の営むスナック)」に行くため、

美容室や化粧やら、身支度が必要だったからだ。

それに合わせての一番風呂だった。(一番風呂は熱くて入るのは難儀だった)

 

私は自分も子供だったにも関わらず、小さい子供(赤ちゃん)が好きだった。

なので、幼子を連れて風呂に入りに来る若いお母さんたちからは非常に重宝された。

まずは、赤ん坊を洗い、そのあと、自分と上の子供を洗って出るまで、

当時の風呂屋に設置されていたベビーベッド台から、

落ちないように見守っていたからだ。

 

徐々に子守りの腕も上達し、湯上りの子供を受け取り、タオルで水滴をふき取り、

シッカロールをパフパフ…真っ白に仕上げ、産着を着せられるようにまでなった。

湯上りの赤子は程よくやわらかい肌はホテリを表す朱色に染まり、

丸まる張ったおなかに、バタつかせる手足の動きは特に可愛かった。

 

今のご時世では考えられない環境だった。

みんな、他人ではあったが信頼し、助け合った古き良き時代であったと、

改めて思う。

 

 

その時、身内連中で建てた、ツギハギだらけの家ができたばかりだった。

姉は就学前。私は一歳年下。妹はさらに2歳年下であった。

 

母は食事の支度をしない人だった。

朝は7時に鳴る目覚まし時計と共に起床。

一分でも寝坊すると、父の制裁が待っていた。近くの公園のグランド5周。

その時間帯、母はベッドの中から父と抱き合って、様子を見ているだけだった。

自宅の前にある雑貨やに届く菓子パンを買いに行き、

それを食べて学校に行くのが我が家の常識だった。

(学校へ出かける姉を見送ると、私と妹は姉の帰りを待って過ごしていた)

 

夜、母は500円札一枚を置いて店に出かけて行った。

父は何をやっていたのか知らないが不在も多く、私たち姉妹は子供だけで、

留守番をし、夜8時には歯磨きを済ませ、店にいる母に

「おやすみ」の電話を入れて、戸締りをし寝るのが当たり前だった。

 

姉は幼少期より、しっかり者だった。いや、

半強制的にその役目にさせられた、と思う、

「長女」だから、という意味だけで…。

 

今、振り返ると可哀そうな役割であったと思う。

私と妹はいつも姉の号令に従うだけの楽な立場であったと思う。

 

姉は勉強もできた。常に年齢より1年2年上の本をいつも読んでいた。

実際、大学卒業まで優等生であった。

クラスでは一番は当たり前、学年でも常に1位、2位を争い続けていた。

でも姉は実際、塾へも行かず、個人の部屋など無い環境で独学で学び、

教科書や参考書を枕代わりに、テレビ音が響く中、見事な集中力で

やってのけていたのだ。特に数学や理科が好きで得意だった。

難題になればなるほど、解けた時の快感は果てしないのだ、と聞いたことがある。

私には考えられない思考レベルだ。

 

高校は地元でもハイレベルな都立高校を受験、

アルバイトをしながら自分の学費を捻出し、文武両道を絵にかいたような人だった。

だから、姉は誰からも文句を言われない人生を、この時すでに確立していたと思う。

 

私は…と言えば、絵(マンガ)を書くのが好きだっただけ。

勉強はサッパリ派だった。

テストがあれば、回答はそっちのけで裏紙に漫画を描くだけの子供だった。

家庭科も、算数も理科も大っ嫌い。あんなの、社会に出てなんの役に立つのか聞きたかったが、その時、すでに本能で「不要」とジャッジしていたように思う。

 

両親がいつも不在の夜の家庭環境はいまになって思えば、

幼い子供の精神衛生上、とてつもなく劣悪であったと思う。

 

下のまだ幼い妹は、母の匂いのついた洋服を、タンスから引っ張り出しては、

それを嗅ぎながら母を恋しがり、よく泣いていた。

母はよく着物を着こなし、「琴」という香水を愛用していた。

彼女にはそれが精神安定剤代わりになっていたのだろう。

 

「外伝」でも記述した通り、人間の記憶は「におい」でよみがえるものらしい。

大人になったわたしも着物を着る時は、母と同じ香水を使用していたものだ。

 

そして私は、二年生くらいまでは、人並みに生きていたと思う(生活態度だけ)

三年生くらいから、急に活発になったと思う。

髪型はショートヘアで、夏はランニングシャツに短パン。

まさにボーイッシュ。オトコの子と、よく間違われるほどだった。

今、振り返っても、ほとんど女子と遊んだ記憶がない。

スカートをはいた記憶がない。

男子とドッジボールや、野球、ケイドロ(警察と泥棒の略)など、

時には殴り合いのケンカもしてた。

今でいう、「性同一性障害」だったのかもしれない、と最近まで考えてた。

 

そんな私が人気投票でクラス代表の学級委員長になったりもした。

あの時のクラスの仲間の心情が知れない。(人を見る目があるのか無いんだか…)

 

転校した男子から「好きだった」なんて、ラブレターも貰ったことがるし、

高学年になったら、上履きの中に紙切れの告白メモや、

呼び出されて数えきれないほどの告白を受けた。

 

でも、とうのご本人は?というと、全くの無知であり、なんとも思わなかった。

 

やはり、どこかおかしかったのかな?

 

そんなかんなで、小学校では軽い問題を度々、起こしながら中学生に。

 

私を迎える学校では、期待でどよめきだっていた。

そう、一つ上の姉があまりにも優等生だったから。

こりゃ、きっと妹も優秀に違いない、と、学校側は勝手に決めつけて

楽しみにしていたようだ。

 

しかし、入学してきた私は、姉とは真逆の「不良」そのものだった。

 

当時、別クラスで校長室の掃除当番をしていた子が教えてくれた。

 

「校長先生の机の上に、あなたと、〇〇君と、〇〇くんの

卒業式の顔拡大写真がおいてあったよ。」

 

一応、マークされてたのね…

確かに、〇〇くん、はスッゲー悪かった。

中2で角材で先生、ボッコボコに殴って、先生、血まみれ→

パトカー、救急車到着→結果、少年鑑別所行きなった。

 

その彼は今でも「大心友」であり、もう50年近い付き合いになる。

 

一年生の一学期までは、そこそこ、おとなしくしてたが二学期になる頃には、

もう外見からして「箔」を付けていた。

 

金八先生やスクールウォーズの時代。

私の通っていた学校も荒れていた。

 

先輩風をふかしたオンナどもは私をシメたがっていたようだが、

いざ、私を目前にすると団体でスルーしていった行動は実に面白かった。

 

私は入学と同時に高校進学はしない、と公言していた。

理由は三つ。

① どうせ親は学費を払えない(私が進学したら妹が進学できなくなる)

② 進学してもどうせ私のことだから、途中で辞めるにきまってる

 (「中退」はカッコ悪い。どうせなら「中卒」のがかっこいい)

③ 早く「社会」に出て挑戦してみたかった。中卒のわたしが、

  どこまで通用するのか?試してみたくて仕方なかった。

 

どの理由も浅はかでもあり、親に言えない計らいでもあった。

だから私は真面目に学校に行く必要性は無かった。

 

二年生になった頃、上下関係の厳しい行内の決まり事も、私には通用しなくなった。

両サイドの髪は赤く脱色し、スカートの丈は足首まで長くなり、

授業妨害はお手の物。学校の悩みの種、の一人となった。

 

万引きなんて朝飯前。私に「通貨」なるものは存在しない状態だった。

家にお金は無く、よく電気、ガス、電話、水道は料金滞納で

止められてるありさまだったから。

 

小学校入学の時から、給食費の自動引き落としができず、

毎回、決まった顔ぶれが生徒全員の前で「赤紙」なるもの、

すなわち「払え!」の督促状を配られた。

今だったら考えられない配慮の無さだ。

 

それよりも、「同じ顔ぶれ」は母子家庭の子ばかりだった。

だが、うちは一応、両親がいる。

 

給食費の未払いは結局、私が中学卒業まで、容赦なく続いた。

 

でも、このおかげで、離婚後の私の生き方に火がついた。

子供たちの学費に関する「口座自動引き落とし」は私に逆らわない限り、

彼らは恥をかくことは一度もなかったのだ。

 

話を戻そう…

学校では規定の登校時刻が過ぎると、正門は閉められ風紀委員が遅刻者の罰則を取り締まっていたが、私が行くと大きな鉄製の門扉は自動ドア状態と化し、

彼らの手で無言のまま開けられた。

暗黙のルールだった。

 

それでも、何故か毎年、学級委員長には選抜され「生徒会」なる、

いわば、ミニ国会の場に駆り出されるようになった。

 

学校側からすれば、「社会への協調性」や「話し合い」の訓練ぐらいに考えていた「生徒総会」に、正面切って校則に異議を唱える「オンナ戦士」へと変わり、

体育館一杯に集まった男女問わず全員の生徒から拍手喝采を浴びるようになり、

再び一目おかれるようになるのだ。

もう、教師もお手上げ状態だったであろう。

 

その間も警察沙汰は起こすは、校内問題には必ず首謀者として関わっているは…

帰宅すると、家にはよく生活指導、担任、関係者の親がいることが多々あって、

驚くこともあった。

でも、自分で言うのもなんだが、本当の”絶対悪”ではなく、

”弱者の味方の正義悪”であったと思う。

でも、その時代の大人は日々を捌くのに必死で誰も理解してはくれなかった。

 

そして次第に学校には行かなくなる。

 

「自分のやり方で理想を追う者は敵を伴う」

 

 

 

つづく…

■■わりと大切なお知らせ■■

 

虐待/貧困/父不倫/中卒/早婚/性病/離婚/倒産/癌宣告/精神疾患/起業/愛人生活…

などなどなど・・・(過去記事一覧よりご覧頂ける通り)

 

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