外伝〈訃報 2〉

 

 

バス亭に到着すると、お義母さんの(実弟)叔父さんが迎えに来て下さっていた。

 

田舎の再整備地区で、

ちょっとした都会より様々な大型店舗に囲まれており、とても便利な場所だった。

そこで私と彼は軽食を摂ってから直ちに「本家」に直行した。

 

「本家」の叔父様こそが、遺体発見→通報→諸事、対応してくださった方である。

自宅はそれほど立派…と思えないが、地元ではかなり名の知れた名士であるようだ。

 

叔父様は私の顔を見ても、「?????」ってな感じだった。

(そりゃそうだ、だって事前に伝えてないんだもん)

 

でも、彼がシンママの私を「嫁です」と紹介してくれた。

 

新参者の私は、叔父様に軽く会釈をし、正式なご挨拶より先に、

東京より持ち寄った手土産と、お線香代を持って仏間に座した。

 

実に立派な仏壇であった。東京ではそう見かけない。

線香を焚き、鈴を鳴らそうと探すも見当たらず、大きな木魚が目に飛び込み、

やはり風習の違いに困惑した。お作法が全くわからなかった。

 

取り敢えず、彼の分も手を合わせ神妙なおももちの、

オトコ衆の中にこっそり入って、一連の出来事の話に加わった。

 

本家の叔父様の口調は、大変、穏やかでゆるやかで、状況説明は至極、丁寧でわかりやすかった。

 

 

その時の状況を見てしまった叔父様も、詳しく語るにはやはり、

はばかれるものがあったのか、時折り、言葉を呑んで語ろうとはしなかった。

 

それくらい、悲惨な状況だったようだ。

 

叔父様の家の室内はやや風通しは良かったものの、やはり蒸し暑く、

「エアコンは無いのかな?」と思いながらキョロキョロしていたところ、

建物が古くてエアコンの設置が不可能であることを彼が教えてくれた。

これでは、彼の実家はきっとサウナ状態だったに違いない。

 

そんな最中にも、彼の両親の不慮の死を聞きつけた近隣の方々が続々と、

香典をもって弔問に訪れた。さすが、地元の名士である。

 

 

それにしても、本家が近い(歩いて30秒)

・・・とは言え彼のご両親のことを、気に止めていてはくれてなかったのか?と思うと少々、腹も立った。

 

二人とも、知的障害があるのは百も承知であったのに…。

赤の他人の私まで悲しくなってきた。

 

 

 

・・・そして、葬儀に向けて怒涛のスケジュールが始まるのだった。

 

お義父さんの弟夫婦が到着次第、警察→役所→葬儀場→etc…と続く。

 

しかし私は肝心なところでバテてしまい、ホテルで仮眠をとった。

 

彼はその間も、叔父様や叔父たちと、二手に分かれ、

あちらこちらにと「業務処理」をこなしていたそうだ。

 

途中、彼は亡くなったご両親を検死後の警察署で引き取りの際、

対面の機会があったそうで、

 

彼自身は「見なくても後悔するなら、見て後悔したい」と言ったそうだが、

お義母は腐敗が酷く、「綺麗な記憶のまま送った方が良い」と、

警察や親族に止められ、最期まで顔をみることは叶わなかったそうだ。

 


後に、通夜が行われる葬祭場で、

「腐敗が酷い為、顔も見えないようにこの場で処置をしたい」

と言われ彼は同意し、一時的に棺桶を開いて特殊な梱包材で処理されたが、

彼はその時のことを”におい”だけで語っていた。

 

よほどのことだったのだろう…

のちに彼はこの「記憶のにおい」に、しばし苦しめられることになる。

 

滞在中、私も親戚も彼の実家に行ったが、家の中に入った瞬間、なんとも言えない「におい」が立ち込めていた。これが俗に言う、”腐敗臭”なのだろう。

彼は、これより何十倍も酷いのを嗅いでしまったのだ。

 

それでも彼にとってそれは「母さんのにおい」なのだ。

 

 

お義母さんが座って亡くなっていたというソファーには、ウジ虫とハエがいた。

足元の絨毯には、体液と思われる痕跡があった。

 

そのウジ虫と、窓を開けても離れようとしないハエを彼とみて、

「きっと、お義母さんとお義父さんが喜んでるんだね」と話してる傍で、

叔母が「やだー」と背中越しで軽い嫌悪感で言い放つのを聞いて、

また腹立たしかった。

 

彼は着ていたシャツを脱ぎ捨て、みんなが嫌がってやろうともしない片付けや、

大事な証書や通帳など探しまくり、写メを取り、

のちの相続の為の資料を集めていた。

 

そして、暑さもあったであろ…なんとなく、お義母さんが先に亡くなった後の、

お義父さんの行動が読めてきたのか、腹を立ててるようだった。

きっと彼は過去の記憶がよみがえり始めてるに違いない。

お義父さんに対する怒りが、よみがえってきてるに違いない。

お義父さんがもう少し、ちゃんとしてくれていたら、こんなことには…と、

きっと、腹を立ててるのに違い無い。

 

私は黙っていたが、お義父さんも好きで障害を持って生まれてきたわけではないのだ。でも、彼もそれはきっとわかっているのだろう。

だから、当たり所が無くて「怒り」になってしまっているのだろう。

 

それがまた、切なかった。

そして、好き勝手に生きて散々、周囲に迷惑をかけて死んだ、

私の父に対する恨みもなんだか、理解ができてきて溶けていくようだった。

 

でも、彼は悲しみに暮れる暇もなく、様々な法的処理を同時進行で片づけていく。

そういうヒトなのだ。

彼が心配だった。

この一か月間でやっと、「心の平安」を取り戻せたのに…

彼の脳はまた眠らず、マッハのスピードで走り続けてしまうことになるのは、

火を見るより明らかだった。

 

初日の夜、北海道の叔父夫婦と食事に行った。

案の定、彼は穏やかな叔父さんを捕まえて、延々としゃべり続けていた。

日本酒を注文し始めたので、黄色信号を感じた。

なので、私も彼の分を取って呑んだ。

 

でも、私にはわかる。

喋り続けてでもいないと、彼の胸は張り裂けて、きっと涙がこぼれてしまうから。

思い出話しなんかされたら、きっと泣いてしまうから。

 

食事を終えて一旦、ホテルに帰ったが、またコンビニまで飲み物の調達に戻った。

長い商店街はすっかり、灯りを落とし、やっている店は若者向けの

一軒だけだった。そもそも、日中、通ったがほとんどやっておらず、

県外の過疎化を象徴している街並み、シャッター商店街になってしまっていた。

コンビニでの買い物の中身はお酒が多かった。

 

夜だけが、秋の空気を含んみ、月が静かに照らされていた。

 

 

翌日も早朝より多忙であった。

毎日、睡眠薬で起床、就寝を自由に決められる私たちにとって、

時間の縛りがあるのきつかった。でも、彼からしたらそれどころではない毎日。

私の務めは彼を支えること。

弱音を吐いてはいけない、と私なりに頑張った。

 

金融機関の口座凍結など、問題は山積み。

でも彼の得意の分野。

不可能なことだとわかっていても、取り仕切っている「叔父様」たちが納得しないので、彼はそれにただ、黙って付き合っていた。

時には彼は職員よりも知識がある。

こちらに来る前にもしっかり下調べもしていた。

彼にとっては、さぞ拷問タイムであったろうに。

 

そんな中、お義母さんの弟の叔父さんと距離が段々、縮まり車内待機の折り、

いろんな話ができた。

嬉しかったのは「あいつが独りぼっちじゃなくて良かった。」と。

「15で東京に行くと言った時、みんなで反対した。でも、よく頑張ってる姿を見れて良かった。」

「どうか、あいつのこと、よろしくお願いします」と、何度も頭を下げてくれた。

 

運転席から後部座席にいる私と会話をする時、おじさんは体を半分、後ろに向けてくれる。その時、見えてた左耳の補聴器。まだそんな年ではない。

お義母さんも耳が聞こえなかったらしい。これも”遺伝”なのか?

でも、私にはどうでもいい。

いま、ここにいる人は「姉を失くした弟」であり、新参者の私を受け入れてくれた、

優しい叔父さん、ということだけ。

 

 

お通夜の時…私は初めて彼のお義父さんと対面した。

生きてるときには会えなかった無念さが残る。

お義父さんは、ゲッソリ痩せていた。

顔は真っ黒く変色しており、まさに「死びと」という感じだった。

鼻の穴には綿が詰められていた。

 

警察の検視官の話では、二人とも胃の中は空っぽだった、という。

お義父さんは死後2~3日だろうと。

お義母さんは腐敗がひどく、死因は不明。

死亡日時も不明。

検死診断書には、「おそらく二人とも、熱中症、脱水症…」と大雑把な回答だった。

でも、ゆるやかに亡くなったのではないか?と最後に少し救われる言葉があったそうな。

更には警察の聞き込みで、軽い認知症もあったのではないか?ともいわれたらしい。

実家捜索の際、タンスの引き出しから食パンや、菓子パンがいくつか出てきたし、

冷蔵庫と冷凍庫からは、同じ種類のお惣菜や野菜がたくさん出てきた。

 

他にも、食べきれないくらいの納豆が冷蔵庫や茶だんすからも出てきた。

あと、ラップやティッシュなど…「なんでこんなに?」と思うほど出てきた。

 

そういえば、うちの父も何に使うのか?と思うほど、

クッキングペーパーが出てきた。(いまだに処理しきれてない)

 

 

そして、お義母さんの棺はやはり閉じられたままだった。

葬儀場の部屋の中は、あの”におい”が、薄っすらと立ち込めていた。

 

 

 

 

 

白い布に覆われ二人並べられた棺を見て、私は手を合わせずにはいられなかた。

 

「お義父さん、お義母さん、お二人とも、どんな人生だったのでしょうか?

 決して、幸せとはいえない人生だったでしょうね。

 亡くなる時もつらかったでしょう?苦しかったでしょう?

 喉も乾いていたでしょうに…暑かったですよね。

 でも、彼をこの世に産み出してくれて、ありがとうございます。

 いきている時に、お会いしたかったです。

 これからは私が彼と一緒に手を取り合って生きていきますから、

 心配しないでくださいね。

 そして、あの世でも苦しまなくていいように、

 ずっと供養をささげていきますからね。」

 

そんなことを心の中で語りかけていた。

 

そのあと、お坊さんが来てお経をあげて下さる予定だった。

彼は、役所で様々な手続きがある為、欠席の見込みになった。

叔父様もまだだった。

 

その間、遺影にする写真が出来上がり、みんなで見て盛り上がった。

使用した写真は、北海道の叔父夫婦の結婚式に参列した時のものだった。

 

お義父さんとお義母さんは若く、特にお義母さんは、

お世辞抜きでとても可愛らしかった。

顔立ちも整っており、43年前の写真だというから、当時でいうと、

天地真理がアイドルの時代。引けを取らないくらい可愛かった。

 

その最前列で4歳の彼がお行儀よく、ちょこんと座っている姿もあった。

今でもその面影が残っており、可愛くて私にはレアものだったので、

バシャバシャと写メを撮った。

 

そこに叔父様登場。お坊さんも登場。彼も間に合った。

お坊さんの読経に合わせ、彼も私も真剣に手を合わせ、冥福を祈った。

 

「過去に体験したことは、今の自分と多いに関係がある」

 

 

つづく…

■■わりと大切なお知らせ■■

 

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などなどなど・・・(過去記事一覧よりご覧頂ける通り)

 

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