叔母の外見は細身だ。

決して、美人とか可愛い、という容姿ではない。

肌の色は浅黒く、化粧っ気もない。

そして、子供の私にも見て取れたのは”ペチャパイ”であった。

 

それに反して母は、「乳牛か?」と思うくらい、グラマラスだった…いや、80を過ぎた今でも、”乳牛”はご健在である。

どうやら、私もその血を受け継いだらしい。

 

母は元々、7人兄弟だった。

しっかり者のすぐ下の弟は腎臓を患い、25の若さで死んでしまったのだ。

本当に優しくて、苦労していた祖母(叔父からは母親)を特に気遣い、

「おふくろ、待ってろよ、そのうち楽させてやるからな」を、口癖のように言っていたと、母と祖母から何度も聞いていた。

叔父の話をするときの祖母の顔はいつも寂しそうであった。

「親より先に子供が逝くほど、親不孝なことはない」と、よく言っていた。

「生きていたらきっと、あの子は私に楽をさせてくれたに違いない」、

ともよく話していた。

 

あの時代は日本中が貧しく、こと、母の生家は祖父の散財で、さらに貧しかったらしい。いまでは病院にかかれば、一発で治せる薬も高額で、叔父の治療費は一家に重く、のしかかっていたそうだ。

 

インスリンが一本、三千円。この時代の三千は現在の価値に換算したら、とてつもない額だったらしい。

 

そう長くはないだろうと、誰もが諦めかけていた時、叔父は入院先の病院で出された食事を完食し、「あ~うまかった!」と平らげたのだそうだ。

それを知った家族は大きな安堵をしたそうだ。

「これでもう大丈夫だねぇ」と。

 

けど、その直後、叔父の容態は急変。アッという間に亡くなった。

そう、俗に言う「最期の死にメシ」だったのだ。

 

家族は打ちのめされ、最後まで珍しく高価な「スイカが食べたい」と、ねだる弟の要望に応えてあげられなかった貧しさが、無念だったと、母はスイカの季節になる度、いまだに呟いている。

 

若くして亡くなってしまったゆえ、私は生前の叔父には会ったことは無い。

だが、モノクロの遺影で顔は知っている。

祖母に似て、なかなかのハンサムだ。

 

仕事から帰って来ると、まず外で足を洗ってから家に上がるほど几帳面だったらしい。いつも人に優しくて、酒を呑んでは暴れるじぃさまを、いつもなだめていたそうだ。

 

その祖母も25年ほど前に他界した。

母の生家は父の借金のカタに取られ、立ち退き期日を三日待ってもらい、

祖母の葬式を出した。そして同時に、私たちも帰る家を失くした。

祖母の葬儀は盛大だった。

地元の人を中心に真冬の寒い中、300人くらいの弔問客が来てくれた。

 

母は葬儀中、ずっと泣いていた。いや、号泣し続けた。

霊柩車の中でもそれは続いた。

そして、その横の座席には何故か私の幼い三男坊が座り、彼も釣られてか、

ずっと泣きじゃくっていた。

 

話が飛んでしまったが、「叔母」は最初、この若くして亡くなった叔父の婚約者だったのだ。

 

叔父の死後、祖母は一緒に暮らしていた叔母に、実家に帰るよう、さとしたそうだ。

「あんたはまだ若いんだから、息子のことは早く忘れて、幸せになりなさい」と。

 

けど、叔母は家を出ず、次に唾を付けたのが「叔父の弟」だったのだ。(母が長女で上から四番目)

 

この事情を知ったのは私がだいぶ、大人になってからだった。

 

そして、その叔父とも正式な離婚もせぬまま、父と不倫関係になり、私たち家族を苦しませ始めるようになったのだ。

 

 

公園に行っても私の頭のなかの霧は晴れることなく、いてもたってもいられず、

一人、叔母の家に向かった。

道中、心臓の鼓動は高鳴り、イヤな予感しかしない。

まだ、小学校5年生だった私に「不倫」とか適切な言葉は見つからず、ただ、「お父さんはお母さんを裏切ってる!」としか、思い浮かばなかった。

 

叔母の実家は古めかしく、玄関の扉は木枠にガラスが張りめぐらされてるだけのチープな作りだった。開閉するたびに防犯の意味で付けられていた鈴が鳴ってしまう上、歪みで開けようとすると、ギシギシと音が出るのだ。

 

私は息を殺して、そーっと、扉を開け、家の中に中に入り込んだ。

そして、次なる難関、「急勾配の手すりなし、木製階段」に挑まなければならなかった。

一歩づつ上るたび、ギシ…ギシ…と、イヤな音を立てる。

 

今、考えれば40年以上も前のこと、その当時ですでに建物は老朽化しており、変な構造だったなぁ、と思う。

一階の玄関横に、間仕切りも無い、石造りのお風呂が剝き出しであったり、家の裏に回ると、外から二階に直結の、これまた木製急勾配階段があり、階段の突き当りには、フック式のカギひとつで出来た扉が一枚あり、賃貸用だったのか、扉を開けると六畳一間と廊下の突き当りに、ボットン便所と、石造りの簡単な洗面台があった。

 

まるで忍者屋敷さながらだった。

 

と、そんなことはさておき…、階段を上がり切り、目に飛び込んできた光景は…

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

叔母の膝枕で父が耳かきをしてもらっているではないかっ!?

(今でも疑問なのは、ヤルこと、ヤった後だったのかなぁ?)

 

10才の私の頭は大大大大パニック!!!(/・ω・)/

 

鼓動は高鳴り、今にも階段から転げ落ちてしまいそう…

 

そんな時、急にみんな帰って来た!

公園から先に帰った私を追うように、みんな勢いよく帰って来たー!

「ただいまー!!」と元気よく、ギシギシ扉を開き、派手に鈴を鳴らしながらドカドカと階段を一気に駆け上がってくるではないかっ!!

 

叔母と父はとっさに離れた。

そして何事もなかったかのように振舞っていた。

私に見られてたことを知らない、父と叔母。

そんなことがあったなんて、露とも知らない姉妹と従妹。

 

帰りの車内は複雑だった。

母になんて言えばよいのか…、いや、言うべきではない…、いや、実際のところ、幼い私には成すすべもなく、口を閉ざすことしかできなかったのだ。

 

結局、そんなに時を待たずして、父と叔母の関係はバレ、

泥沼のドタバタ劇を繰り広げたのだ。

 

その後、母は20年近く我慢(期待半分、離婚後の生活の不安半分)をし、私が離婚すると同時に、両親も離婚させた。

そして、私が母を引き取り、その後、起業し、贅沢三昧で穏やかな日々を送らせたのだ。

 

 

一体、叔母は「魔性の女」だったのか?…今も何度、考えても、そうには見えない。

でも、男をたぶらかす、何かを叔母は持っていたのだろう。

 

結局、叔母と父はその後、入籍することもなく、父が亡くなるまで、40年以上も通い婚を続けたのだ。私も父が亡くなった日、40年以上ぶりに叔母に会った。

父に全財産吸い上げられても、まだなお、ずっと好いていた叔母を思うと、少し哀れにも思うし、一人のオトコを愛し続けるなんて芸当、私には到底マネできないな、と感心もした。

今は父の死を最後に一切、連絡を取ってない。

 

大変、不愉快な思い出(記憶?)となり、私はその頃から「構ってかまって病(ウソつき)」を発症してたと思う。

そして、もっと特筆すべきは、大人になって離婚をした私は最もキズついたはずの記憶である大罪、「不倫」をこよなく繰り返す女へ、となってしまったのだ。

 

そして、その罪を数年かけて、償う羽目になるのだ…

 

 

 

つづく…

■■わりと大切なお知らせ■■

 

虐待/貧困/父不倫/中卒/早婚/性病/離婚/倒産/癌宣告/精神疾患/起業/愛人生活…

などなどなど・・・(過去記事一覧よりご覧頂ける通り)

 

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