第2章に述べた彼の経緯は、彼の人生の、ほんの一部である。

彼には、一般の人には到底理解しきれない、ケタ外れの過去が何十年分もある。

それは決して、キレイごとなんかではない。正に「黒歴史」、そのもだ。

(これについての詳細は、一切、記述できない。ご理解を。)

 

私も初めて聞かされた時は、心臓が凍り付いたのを覚えてる。

「このまま一緒にいてもいいのだろうか?」

「私のウツワで受け止めきれるのであろうか?」

かなり悩んでほどだ。

彼の鎖骨あたりにある、焼けただれたような痕跡も過去の出来事の一つなのだろうと推察できる。

 

その心に負った傷や記憶に、彼はいまだに苦しめられている。

眠ると、必ずうなされるのだ。だから彼は眠るのを嫌がる。

 

毎日、様子を見ながら精神安定剤や睡眠薬を飲ませて、強制的に眠らせてはいるが、今のところ効果は薄い。数時間で覚醒してしまうのだ。

彼の犯してきた罪は、未だに彼を赦してくれない様である。

 

いかなる生き物にも必ず「睡眠」は必須である。

眠れないほど苦しいものはない。

彼も私も、クスリなしの「快眠」には、ほど遠い。

 

私と出逢ってからの彼は、あのダサい容姿から一変、総合的にイメチェンをした。

白髪の目立つ髪色は、明るいカラーに染まり、白とブルーを基調とした洋服を着るようになった。靴はカーキー色がよく似合っていた。

 

タバコで真っ黒になっていた肌は、高濃度のビタミンCで白く輝いていった。

銀縁メガネも、おしゃれな流行りのフレームに変え、ガリガリだった体は食事によって男性らしく貫禄をつけていった。

見知らぬ人からは「三十代?」と言われるまでに。

彼の昔の知人は久しぶりの再会に彼を見つけられないほど、彼の外見は変わったのだった。

 

それが、再会を果たした時の彼はボロボロであった。

まるで、餓鬼のようにやせ細り、頬骨は目立つほど浮き上がっており、髪は再び真っ白に…。そして、もともと眠そうだった目は死んだように虚ろだった。

ショックだった。

 

この一年半の間に、一体、彼に何が起きたのか?

何が彼をここまで変えてしまったのか…。

(詳細はまたのエピソードにて)

 

そんなことを考えていたら彼が言葉を発した。「助けて」と。

涙ながらに私に言ったのだ。

愕然とした。

何故なら、彼の辞書には無かった言葉だったから。

あんなにも「戦士」で、ある意味、いい意味で「クレイジー」な彼。

そんな彼が「助けて…」なんて。

再会してからは、私の家で毎日、毎晩、昼夜を問わず酒を呑んでは泣いていた。

私は、ただ黙って彼の話に耳を傾けながら、空白の時間に何がおきていたのかを考えていた。

 

でも、泣きながら、過去に犯した罪の話しをしている姿を見ていると、後悔しているようで安堵した。何も感じない人間だったら、いま、私は一緒にいなかったかもしれない…。私もたくさんの罪を犯してきた。でも今は心を入れ替え、まっとうに生きている。過去は変えられないから、前だけ見て生きている。

 

「人間とはなんと愚かな生き物であるか。

 それは「執着」と「悶々」に囚われているからである。

「執着」とは過去のこと。過去はもう変えられない。

「悶々」とは未来のこと。まだ見ぬ未来に囚われること。」

 

なんかの映画で聞いた言葉。

 

あるがままを受け入れて生きることの”覚悟”ができるようになった。

「常に正しくあれ」と、心に刻んで生きている。

そしてこの経験から私は「心の安住」を得た。

だから彼にもいつか、そんな日が訪れて欲しいと心から願って止まない。

 

彼は言う。「自分は一生、許されない罪を犯した人間なんだ」と。

でも、私は言った。「法律が定める償い方だけが全てではない。罪を認め、後悔した瞬間から初めて償いが始まる。」と。

そして、私も一緒に背負って生きていくから、と。

 

いまでは「吐き出せた」おかげか、少しずつ落ち着きを取り戻してきたと思う。

酒量も減り、また食事もたくさん摂るようになり、わずか一か月で4キロも太った。

相変わらず、睡眠時間は短いが、工夫して最低限の睡眠は確保はできるようになってきた。

 

なんとも凄まじい過去の持ち主のこのオトコ。

まだまだ、奥行のある物語を持っている。

 

決して高身長ではない(163㎝くらい)(私のが4㎝高い)

でも、二枚目ではない。が、顔立ちは整っている。だから三枚目とのあいだかな?

頭もずば抜けて良い。是非、彼の脳みその中を覗いてみたい。

アチラも至極、立派なものをぶら下げている。(夜のお勤めは歓喜にあふれている)

今まで出会ってきた人・オトコの中で、断トツ一位だ。

■中卒

■経営経験者

■攻撃力

■先見の明

■スピード力

■体の相性抜群

こんな「条件」じゃないと、私とは合わないことを思い知った。

(こりゃマッチングアプリじゃ無理だわ)

 

 

 

 

そして、わたし…。

初めから「メス・らいおん♀」だったわけではない。

ちびっ子のころは、本当に泣き虫だった。これは自覚ある。

でも、「軍事国家」の我が家が(父の存在)私を変えていったのである。

 

「人間、生まれた時から悪いヤツなどいない、ただそこに悪い環境があっただけ」と、これもまた何かの映画で観たが、正にその通り!だと思う。

 

出生の時から数年間くらいは、貧しいながらも一応、両親に愛されていただろうと思いたい。ただ、悲しいことにその頃の記憶は無く、覚えているのは7才頃に父から激しく罵倒された言葉から積み上がっていったのだ。

 

何をしでかして怒鳴られたのかは全く覚えてないが、記憶に残り始めたのは、鬼のような形相で目を見開き、幼い娘である私に異常なまでの怒鳴り声を上げていた父の姿。

 

「お前なんか今すぐ死ねっ!!!今すぐ自殺しろっつ!!!お前は躁うつ病なんだっ!!!」と言われた。(当時は「躁うつ病」なんてしらなかった)

成すすべもなく、ただ怯えて震えながら泣くことしかできなかった私。

 

自宅は、オイルショック時に重なって建てたモノ。

アチラコチラが不完全のままだった。

三階建てなのに、お風呂も無い。

壁はボードを張っただけで、壁紙すらない。

雨が降れば、アッという間に雨漏りがし、部屋中の至る所にバケツが置かれる有様だった。

 

だから屋上の手すりも隙間だらけ。

子供であろうが、大人であろうが、体を乗り出せば余裕で落下する。

その隙間に体を乗り出し、片手だけで手すりを掴み、泣きながら、「この手を離せば…」と、何度、やったことか…。

大人になって気づいたが、これって、立派な”自殺未遂”じゃね?

今のご時世なら、ニュースものだろうな。

 

その時、母は近くにいなかった。

 

その後も父からの言葉や身体的暴力は加速していく一方で、家にいると緊張感で心が休まらなくなってきた。それは家族全員が感じていたことだと思う。

食事の際も、少しでも無作法があれば怒鳴られ、「もう食べなくていい!!!あっちにいけっ!!!」と、幾度となく、部屋にこもって泣いていた。

学校から帰宅して父がいると、一瞬にして体が凍り付いた。

家にいてほしくなかった。

なんで普通のうちのお父さんは昼間、会社に行っていないのに、うちはいつもいるんだろう?と、本気で嫌で、父が大嫌いだった。大っ嫌いになっていった。

 

父は何か商売をやっては失敗を繰り返し、何一つ、継続することも、成功することもできない人だった。確実なことは、商売をやればやるごど借金が膨れ上がていく、ということだけだった。自分に経営者のウツワが無いことを認められなかったのか、わからなかったのか、就職するのが嫌だったのか、ただ単にバカだったのか…、いづれにせよ、このおかげで、私たち姉妹は学校で恥ずかしい思いばかりするようになった。(給食費、払えないとか…)

 

なので、父はよく家にいてゴロゴロしていた。

収入は母がやっていた小さなスナックの売り上げだけだった。

 

母は品川区の大きな製作所(現在は無い)の傍で小さなスナックを営んでいた。

二階は実弟の嫁の実家。そこには同い年の従妹が二人いた。

 

カウンターに四人、ボックス席に三人も座れば一杯になるような小さな店だった。

今ではあまり見かけない、ジュークボックスなんかも置いてあり、たまに店の掃除をする母について行っては、当時、はやった「ダンシングオールナイト」なんか聞いていたのを思い出す。

 

娘の私が言うのも何だが、母は美人で化粧をするとそれはまたキレイに映えた。だからなのか、場所もヘンピなのにもかかわらず、それなりに繁盛していたと思う。お客は母に三人の娘がいることを知っていたから、時々、お小遣いや漫画本など、もらえることがあったのが楽しみだった(当時は「ドラえもん」だった)

 

そして、ある日、私は父の異変に気づくことになる。

 

土曜日の午後になると、珍しく父が車で従妹の家まで連れてってくれるのだ。

私たち姉妹にとって従妹の家はとても魅力的であった。

何故ならば、いつ行っても目新しいオモチャやお人形など、たくさんあったからだ。

私たちは上限アリで、クリスマスしか買ってもらえなかったから、まるでおもちゃ屋のようで楽しかった。

 

そういえば、一度、叔母に連れて行かれた所がある。

叔父がキャバレーの呼び込みをして、別の女性と暮らしている蒲田へ。

どうやら、毎月の生活費や養育費を受け取りに行ってるようだった。

その時が、その日で、一人で出かけるのが嫌だったのであろう。

待っていた喫茶店でクリームソーダを飲んだのを思い出した。

 

子供の私から見ても、すでに別居状態が続いていたようだった。

だから従妹の家は私んちよりも裕福で、父親が不在な分、モノで寂しさの解消に繋いでいたのだろう。私には、そっちのが羨ましかったが。

 

さきにも述べたが、そこの一階は母の店であり、二階は実弟の嫁の実家

 

同居していた叔母の両親と、叔母の祖父は完全なる”聾唖者(ろうあ)”であった。

だから叔母は、耳の聞こえない両親相手に、いつもイラついた表情で、手話でやり取りをしていたのを覚えている。

 

従妹の家に着くなり、父がこう言った。

「子供は外で遊んで来い!」

そして叔母に命令口調で「おい、ラーメン作れ!」と。

私たち姉妹三人と従妹二人の総勢5人は、とっとと、家から閉め出された。

 

最初は何の抵抗もなかったが公園に向かう途中、私はハッと息を飲んで立ち止まった。

 

「なんか、おかしくない?」と…

 

 

つづく・・・

■■わりと大切なお知らせ■■

 

虐待/貧困/父不倫/中卒/早婚/性病/離婚/倒産/癌宣告/精神疾患/起業/愛人生活…

などなどなど・・・(過去記事一覧よりご覧頂ける通り)

 

ノンフィクションな私の

 

 

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