【目覚めよと呼ぶ声】
NO.01 _____2017/01/28
【目覚めよと呼ぶ声】
だれかが なにかが、あなたの心に呼んでいる。
自分の心をさがそう、と。
自分の正しい心をさがそう、と。
俳句・空中に新春の粒光おり・・・?
「“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる」
ーーーーーこれはわたしの書いた小説の題名です!
バッハの「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」という曲を聴いていてこの題名を思いつきました。
著者紹介いつの間にか、もう79歳になってしまいました。
そう、こころに79年分の何かがつまっています。
そして!!高齢になってから目の難病を発症して、今では失明状態です。
わたしの心はたくさんあって、おばけもいます・・・
どうか「“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる」 ーー読んでください。
定価1200円発行所鳥影社。
題名「“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる」
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“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる
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ーー著者片山郷子。
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はじめまして:
ブログの来訪ありがとうございます。
片山郷子さんが考えていること、感じていること、発信したい事をサポートでアメブロにアップしていますIvoryです。
「”目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる」
AMAZONで購入可能です。
どうぞよろしくお願いします。
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“目覚めよ”と呼ぶ声が聞こえる
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NO・51(75歳の近い将来タイ・・3.11・)
お久しぶりです!!
みなさまお変わりありませんか。
どのようにお暮らしでしょうか。
近くへガイドヘルパーさんと梅を見に行ってきました。
また、(健康長寿医療センター)という病院へいきましたら、物忘れ、認知症の検査をしてもよいですか、といわれ、はいと返事すると、歳月のこと、言葉を3つ、さくら、ねこ、電車と並べ、それから100から7を引く、93からまた7を引くと、また7を引き続けていく。
そして前に言った3つの言葉をいってくださいと、言われました。
記憶力、認知症などはパスしたようです。
みなさまの中にも検査された方もいらっしゃいますか・・・。
わたしの姉はだいぶ前に検査されたようです。
「検査してもよろしいでしょうか」
などとバカ丁寧に聞かれることも、侮辱されたようですが、まあ、仕方がないことですね。
反抗してかんがえるのと、素直にだまって受け入れるのと、どちらが老化防止になるでしょうか。
ほんとうに、認知症、アルツハイマーなど、申告な病気です・・・。
*タ イ
池袋のサンシャインへ言って、パスポートを取ってきました。
なかなかものごとを信用出来なくなったわたしは、もしタイへいけなくなっても、パスポートはお守りに、と思いました。
それに、大学生の孫が外国へ連れていってあげる、というような雰囲気を出したのです。
これは実現しなくても、嬉しいことです。
本当にいけるでしょうか。不安です。
機内持ち込みの小さなスーツケースと白杖とふたつ、右手に持って歩けるでしょうか??旅行前の楽しみが、目がほとんど見えなくなった今、不安いっぱいになりました。
しかし、今の所、中止しようとは思っていません。
不可能と思って居たことの道をひらいてくれて、松さんには感謝です・・。
*耳の読書
①母をお願い(韓国の作家、役者も韓国の人)
母をソウル駅のホームで見失いました。その後子どもたちは母を賢明に探しますが、7ヶ月後、母はまだみつかりません・・。
②等伯 阿部純一郎
①②ともおすすめです。
*2011.03.11・(金)14.46.
一日一日過ぎていき、あの大震災から丸二年が経ちました。わたしたちの頭の中にはさまざまな形でそれらは刻み込まれています。直接体験した人々は勿論ですが、同時代に生きたというだけで、忘れ得ない者です。
わたしは、なんの役にもたたなかった、何も出来なかった、しなかった、という思いが強いです。申し訳ありません。
***また、いつか書きます。濃霧の中から生まれでる。
51回おわり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
*WBCをやっています・・。
**視覚障害者の中でプレクストークをお持ちの方へ!
*流れる日々の中のわたし
*もやい舟
日本点字図書館へお申し込みください。
NO・50(おひるねの時 )
みなさまお元気ですか。
KIKIです。
みなさまはこの濃霧の中から生まれ出る、というタイトルをどう思われますか?
わたしは濃い霧の中から何か産み出したいと思ってこのタイトルをつけました。
長い間ありがとうございました。
わたしは75歳です。高齢になって網膜色素変性症を発病しました。
ずいぶん、いろいろな体験を重ねて生きてきました。
ちょっとお昼寝いたします。
グーグー
目が覚めたらまた書きますので読んでくださいね。
このブログの協力者、松さんと「ほほえみの国」タイへいこうかという夢のような話が出ています。
お元気で、さようなら・・・。
読んでくださってありがとうございました。またお目にかかりましょう!
そうそう、先日「にっちゅう友好会」という催しに友達のウルルマさんに誘われて出席して楽しい時間を過ごしました。その会場で、ビンゴゲームというのをやりました。
東北のみなさま、お元気で、今年こそ東北地方へ旅してみようと思います・・・。
*雪が降る 人か けものか 幻か
*雪が降るどこからどこへ定めなく
*雪が降る音みな飲んで別世界
*みな眠り 雪の公園 月冴えて
NO・49(副音声つき映画、おんがく会・・・)生きがい
KIKIです。
みなさまお変わりありませんか。わたしは少し疲れています。
東京にも行きが降りました。東北の人たちは東京よりもっともっと沢山の雪で、自然との闘いで大変なことと思います。
雪がまだ溶けないで凍っているとき、5分くらいの店に買物にひとりででてみました。
白杖をたてに地面にさして小幅で、ゆっくりと真剣にあるいていました。
「お手伝いしましょうか」
と三人の方が声をかけてくれました。いずれも男性の方でした。
最近声をかけてくれる人が多くなりました。有り難いことです。
この団地は雪かきの心配もいらないし、部屋の中にいれば真冬も春のように暖かです。
それを知っているわたしの娘からは雪見舞いの電話一本ありませんでした。
そういうことは、精神的に、わたしはとても疲れ、心を張りで指されたように、やられます。
参ってしまいます。
みなさま、ご自愛くださいますように・・・。
**わたしの小さな引き出し
*耳の読書(プレクストークで聴く)
正月用にNHKが収録した落語のCDを5枚借りました。
ひとりで声を出して笑ったりしました。王子のきつねはおもしろかったです。
・田辺聖子訳、新源氏物語。
光源氏という男はつまらない男に、特に中年すぎてからは、思えました。
10代のころ与謝野晶子の源氏物語を読んだ記憶があります。
宇治十帖だけ原文で読みました。
わたしは字が読めなくなってから、プレクストークでずいぶん本を読みました。
夜明け前などの長編は目で読んだら、読み切れなかったと思います。
ひとり暮らしの気楽さで、食事中でも夜中まででも聞いています。
それはわたしの心が別のことを考えないようにしようと無意識に思って居るからかもしれません。
*自己流下手な俳句
* さびしさが 雪にまじりて おりてくる
*美しき 老人ホーム 初夢に
*雪が降る 暗き公園 月冴える
(団地へ超してきて一年が経ちましたが、ここで一度も月を見たことがありません。星は前からみえないのですが、月はおぼろにみえましたが、ここではどこの方向から月が昇ってくるかわからないのです。
夜は怖いのでそとへ出ません。空のどこらへんに月が浮かんでいるのかと、電灯の下で考えます)
*映画
日本点字図書館で。題名「レイ」
> 2004年に亡くなった盲目のミュージシャンの伝記。
レイ・チャールズ。 1930年ジョージア生まれ、7歳の時に
緑内障で視力を失う。17歳でその才能を開花させるが、同時に麻薬も始めてしまう。
映画の中でレイが麻薬をやめようとして、なかなか実行できないで、見えないというつらさを忘れるために麻薬でも打ってないといられない、と叫ぶところはわたしは胸をうたれました。
*八重洲室内アンサンブル
日本点字図書館の一室でミニコンサートが開かれました。クリスマスのころで、ホワイトクリスマスなどクリスマスソンブを合唱しました。またボランテアの人たちが造ったサンタの飾りなどもありました。
*「生きがい」というものは、どこにあるのでしょうか。どうやって見つけるのでしょうか。人から与えられるものではないと思いますが、自分でみつかるものでしょうか。わたしは過去の思い出はたくさん持っていると自分で思って居ますが、先にはありません・・・。
*冬の歌を唄おう
100名参加のところ200名の応募があったそうです。一回で当選したのだから、運がいいのでしょう。
お正月、雪山賛歌、スキー、ペチカ、冬景色などピアノ伴奏でうたいました。歌詞は見えないので、思い出したところを口をぱくぱくして、歌いました。歌うと言うことは楽しいことですね。
*2011.03.11・(金)14.46.
地震や津波のことをお話しする「語り部」さんのような方がいらっしゃると聞きました。現地へお伺いしてお話を聞きたいと思って居ます。10年以上前広島の原爆記念館に夫といったことを思い出しました。
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
夫は夫らしく具体的に、いかに楽に死ねるか、自分のこととして考えているようであった。
「おれはどうしたら楽に、周りに迷惑かけないで死ねるかと考えているのだ。長く寝付くのは嫌だし、苦しむのも嫌だ。どうしたらぽっくり逝くだろうか」
「だれだって、そう願っているのよ。でもそれができないのよね。最後の時はわからない。自殺はだめよ。子どもたちに迷惑がかかるわ」
「絶食はできないだろうなあ」
そこで夫婦は、古代エジプトの聖人が絶食してミイラになった話をしあった。同じミイラでも我慢できないで食べてしまって死んだ人のミイラより、完全に絶食できた聖人の方が、「きれいなミイラ」になった、という……。
「普通の人間はできないわね」
「何日も食べないのは辛いだろうな。おれにはできないな」
と夫は想像力を働かせて、珍しく弱気であった。
「どうしたらいいかなあ」
「死ぬまで元気でいるように、これからは健康に注意するのね」
夫は黙ってやはり楽に死ねる方法を模索している顔つきであった。
わたしたちはそれほど深刻な気持ちではなかったと思う。遺言書を書くことをすすめたが、
「何もないから」
と言って書こうとしなかった。では、延命処置をしないように書いておいたら、と言ったが、うんうんという返事だけであった。
ある晩、夫はコーヒーをふたり分いれて、そのひとつを飲みながら言った。いつの間にかお茶やコーヒーなどの飲み物を入れるのは夫の役目になっていた。
「おれは失敗もたくさんした。だがそれでもしたい仕事をずっと続けてきた。外国へもずいぶん行った。仕事ばかりだったが、現地の人と交流した。現地のちっぽけな工場で小型発電機の作り方を教えた。観光したのはエジプトでピラミッドを見に行ったときくらいかな」
夫は国名を数えるように指を中へ折り外へ広げた。
「まあ、いろいろ考えたけど……」
と微笑して続けた。
「おれの人生は失敗ばかりと思っていたが、考えようでそうでもないと思ったんだ」
彼は発電に使うエネルギーの効率的利用を考えていたが、その理想を自分の思うように実現させるために、事業を興し、それこそ死に物狂いで仕事に挑んだが、失敗を繰りかえした。高等数学はできたが、収入より支出が多ければ赤字になるという単純な引き算ができない人のようであった。
しかし、失敗に懲りることがなかった。
失敗をエネルギーに変えているようであった。
それでいて太陽熱や風車の仕事は現状では採算が採れないとはっきりと言っていた。風車については日本では風が平均して吹かないので難しい。年間を通じての風向きの調査と研究が必要だ、と言っていた。
夫婦でいずれ時間ができたら、オランダやギリシャへ風車や水車を見に行こうと話しあった。実行されないで終わったが。
* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。しかくしょうがい者でプレクストークなどをお持ちの方に紹介してください
- もやい舟 (季刊文科コレクション)/鳥影社
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*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
著者片山郷子 発行所 鳥影社
もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
次号は2月11日に開いてくださるようにお願いいたします。
ありがとうございました。
>濃霧の中から生まれ出る< 2013.01.11発行
タイトル
>濃霧の中から生まれ出る< 2013.01.11発行
NO・48_見えなくなって見えてきたもの2・
下手な俳句・障害者作品展の花(花の名前・サンゴミズキ・黄色菊・ピンク・ ストック・クジャクヒバ)_
KIKIです。
あけましておめでとうございます。
お元気ですか。
さて、48号には花を出しましたが、みなさまご覧になれましたか?
わたしのように見えない方もいらっしゃるでしょう。
ボランテアの方が花の名前を調べて、メールしてくれましたので、転記しましたが、どうか、見えない方は隣人に聞いたり、想像してください。
松さんが、花の位置を考えてだしてくれたと思います。
わたしも花や風景の色彩が見えないことはとても残念ですが、ないものねだりをしても仕方がありません。
このブログの読者の方でヘレンケラーの三重苦の話をよせてくれましたが、ヘレンケラーという偉大な人は、神様はわたしたちが謙虚になるように、想像力を働かせられるように、この世に存在させてくださった人ではないかと思います。
親日家で戦後来日されたとき、新聞にでたのを、うっすらと覚えています。
**わたしの小さな引き出し
*耳の読書(プレクストークで聴く)
「命の終わりを決めるとき」
朔 立木(さくたちき)著
*自己流下手な俳句
・年の暮れ 政変聞いて のたりかな
選挙があって、政権が交代しました。わたしは興味をもって、しかし長いすに長々伸びて、ラジオやテレビお聞いていました。
・福笑い 目玉どこかへ いっちゃった
わたしの目もどこかへ行ってしまいました。
*「見えなくなって見えてきたもの」2
このブログの47号、つまり千号で、たまたま大正琴を生きがいとしている視覚障害者の話を書きました。
なぜ旧に彼のことを思い出したのか、それはわかりませんが、彼の小さな「自伝」を出すのをお手伝いをしたのはわたしなのです。
昨年の暮れ、彼をほとんど専属にガイドと介護のヘルパーをしている人に電話をかけて、彼の消息を尋ねました。
彼は約2年前に亡くなっていました。
大震災の前の月で73歳でした。彼は人生に非常に前向きの人で、健康でしたが、ヒトリ暮らしで風呂へ入浴中に亡くなっていました。
心筋梗塞という話です。
大正琴を抱えて、日本中の老人ホームの慰安に出かけたい」とわたしに語ったことがあります。
意欲的でロマンチストのところと、頑固で一徹なところもあり、個性の強いひとでもありました。
まだまだ長生きしてやりたいことがあったと思います。
寒中にお風呂で亡くなる方がおおいそうですから、お互いに記をつけましょう。
彼のご冥福を心から祈ります。
*2011.3,11金曜日14.46.
寒中お見舞い申し上げます。
寒さ、暑さ、強風、雪などという自然の脅威も、さぞつらいことでしょう!
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
「起きて半畳、寝て一畳」
夫は古武士のようなことをいた。そして、自分の仕事のためには住居を担保に入れて借金をしたこともあった。当時、学齢期の三人の子どもを抱えたわたしにとって、借金というものは苦しい心配であった。だが夫は言った。
「小さな自営業者は家屋敷を担保にして、みんな金を借りているのだ。命がけなんだよ」
夫が社会人となった子どもたちから、その能力を一応認められていることは幸せなことではないか、とわたしは密かに思った。
わたしには貪欲なまでの夫の仕事への情熱は理解できなかった。そして表面上、わたしは夫の仕事に関心をもっているようには見せなかった。ことさら無関心を装っていた。できるだけ夫の小さな会社へわたしは首を入れないように自制していた。そしてたびたび言った。
「あなた、そろそろリタイアしたらどうかしら。年金で暮らしましょうよ」
夫の答えは決まっていた。
「そんなことをしていられない。まだ仕事のできる身体と頭があるんだ」
初秋のころであった。いつの間にかセミの鳴き声は絶えていた。
夕食後ふたりでプロ野球を見ていた。それまで熱心に見ているのかと思っていたら、夫がテレビから顔を離して、ふと言った。
「どうやって死ぬのがいちばん楽かなあ」
死について話をするような人間ではなかったのでわたしは内心とまどったが、
「だれでも、楽に死にたいと思っているのよ。でもその方法は選べない、自分の意志で決められないのよ」
と答えた。夫はそれでは納得しないで、自分がいかに楽に死ねるか頭をひねっているようであった。
それを機会に夫婦は死について、死に方について、オープンに口に出して話すようになった。食事中、食後の雑談の中に、死についての話は気楽に紛れこんできていた。わたしは自分に悲愴感はなかったので、夫もそのように見えた。心の奥まではわからないが、ずっと前向きの姿勢で進んで来た人が「死」「終焉」または「中断」について、口に出した。何が心に生じていたのだろうか……。
夫は夫らしく具体的に、いかに楽に死ねるか、自分のこととして考えているようであった。
* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。
しかくしょうがい者でプレクストークなどをお持ちの方に紹介してください
*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
著者片山郷子 発行所 鳥影社
- もやい舟 (季刊文科コレクション)/鳥影社
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もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
よろしかったらお知り合いの方にご紹介ください。
次号は1月25日に開いてくださるようにお願いいたします
NO・47_「見えなくなって見えてきたもの」・松 鶴子
KIKIです。
こんにちは みなさま、お元気ですか。
いよいよ今年も終わりです。あと6日もあるのに、人はみな「もう終わり」と思うのではないでしょうか。
先へ先へと考えるくせが付いてしまっているのかもしれません。
クリスマスですね。むかし、若いころ日本橋に努めていて、同僚たちとの帰り、東京駅へ向かって歩いているとき、どこかの見せからあの甘い「ホワイトクリスマス」の歌が流れてきて、みんな無言で耳を澄ませました。
それ以来、わたしはビングクロスビーのホワイトクリスマスが大好きになりました。あの頃は週休二日というのはありませんでした。ただ、電車が、ラッシュアワーのすごさはいまもむかしも変わらないようです。赤ちゃんも、若者も、後期高齢者になるのですね。
**わたしの小さな引き出し
*耳の読書(プレクストークで聴く)
ミカドの肖像 猪瀬 直木
(これは大宅壮一賞をとったそうで、わたしは猪瀬さんが都知事にたったので、人柄を知るため、読んでみる気になりました。
**「見えなくなって見えてきたもの」
もう、10年くらい前になりますが、網膜色素変性症の男性と知りあいました。
この病気は徐々に進行していきますが、彼は50歳くらいから見えなくなりはじめました。
見えない見えないと嘆いていても仕方がないと思いを巡らしたとき、彼は大正ことに出会いました。
目の悪いこと、楽譜が見えないことを話して先生につきました。
人の10倍も練習してすべてアンプでなつめろや今、はやっている曲を弾けるようになりました。
人の寝る頃からよるが開ける頃まで、何時間もひとりでテープを回し、練習しました。
そして師範の資格を取って、人に教えられるようになりました。
その後彼が選んだ道は老人ホームへでかけて、(もちろんガイドさんと)大勢集まった老人たちの歌声に大正ことで伴奏することでした。
あちこちのホームにでかけました。彼はおばあちゃんたちの人気者になり、民謡、童謡、なつメロの伴奏を楽しそうににこにことしました。
彼の大正琴に合わせて、老人ホームの人たちが歌ったのです。
彼は目が見えなくなった頃離婚しましたが、語りたがらなかったので、事情はしりません。
別の、視覚障害者に突然なったという女の人からは話を聞いたことがあります。
妻から障害のある妻から申し出て離婚をしたそうです。
もちろん、妻、または夫が献身的に協力して仲良く暮らしている人々がほとんどではないかと思いますが。
人の心は不思議なものです。離婚して苦労する方を選ぶこともあるのですから。
ところで、先にお話しした大正琴の男性は半生の、自伝をだしました。
北京に生まれて、敗戦で引き上げてきて、ようやく人生のよき時代を迎える頃になって、失明して、大正琴に生きがいを見いだすまでの自伝です。
彼が決めた本の題名が「見えなくなってみえてきたもの」というものです。
その題名の中に彼の苦悩が、対人関係、日常の不便さ、家族のいないさびしさ、などなどが包まれています。
わたしも見えなくなって見えてきた者はたくさんあります。
それは人の心など、かたちのないものです。
心はどこにありますか? 人の思いは? 空気も風も陽も香りも音もかたちがありません。そしてそれらを感じ、見ることが出来ます・・・。
**松 鶴子さんとわたし
年齢差・36年以上。大阪生まれの大阪人。転勤で大阪から東京へ出てきました。わたしがボランテアプラザというところでパソコンでうった文字の訂正をしてくれる人をさがしていたとき、彼女から「お手伝いをします」というメールがきました。
それが彼女とのはじめてのつきあいで、いまではお友達のように話し合える仲です。
箱根旅行にも音楽会へも一緒に行きました。
わたしの家に手作りの海苔巻きなどを持ってきてくれたり、彼女の家へわたしを呼んでくれたりしました。
このグログの掲載は彼女がしています。多才な、心の優しい女性です。
わたしが特に気に入ってっているのは、彼女の心に長老を労る心があることです。
それはわたし個人にというのではありません。
基本的に持っているようです。多くの日本人が失いつつあるものを・・・。
*2011.3,11金曜日14.46.
松 鶴子のコーナー
こんにちは。 松 鶴子です。 KIKIさんに褒められて登場してまいりました (笑)
ときどきこのブログに投稿しますのでお付き合いください。
今回は、東日本大震災に関して。
私の会社の同僚に陸前高田出身の方がいらっしゃる関係で、先日池袋で開催されました
「つながる。 陸前高田 法政大学」イベントのお手伝いをしてきました。
津波に襲われる前、襲われた後の写真の差にはおどろきです。
語り部さんの陸前高田の現状、今後に関してもお話を伺いました。 涙なしには聞けなかったです。 私も
神戸の大学に通っていた際、阪神大震災。 他人事ではないです。
よくおばあちゃんが言ってました。人生の苦難や、災害や障害はいつどこで来るかわからない。
だから、日ごろ他の人にやさしくしたり、お手伝いしていれば、自分が困ったときに絶対にめぐりめぐって誰かが助けてくれるよ。 って。
毎日忙しくてそういうことは忘れがちですが、おばあちゃんの言葉を思い出すようにしています。
では、また。
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
夫は糖尿の薬を比較的きちんと飲むようになっていた。だが、残暑の中を毎日のように出かけていた。知人の事務所をほとんど無給で手伝っていた。だから出勤時間も退社時間も決まっていない、ということはまた仕事があれば、仕事に興味がわけば、深夜まででも知人の事務所にいて仕事をしていた。
夫の同年代でパソコンで仕事をできる人は少なかった。夫は七十歳ごろパソコンをはじめて、客とのやりとりのメールはもちろん、ホームページを作り、自社の広告を出した。またパソコンで発電機などの設計図を書くことをマスターした。趣味として碁が好きであったが、パソコンに碁のソフトを入れて何時間でも対峙していた。
「パソコンよりおれの方が強い」
と無邪気に喜んでいた。
夫がパソコンを使いこなせるようになった陰には、次女の果歩の力があった。夜中でも果歩に電話をかけてわからないことを聞いていた。娘の都合は考えなかった。
「同型の小さい会社の社長は、みんな歳を取ってパソコンができないので消えていく。特に図面をパソコンで描けない者は駄目だ」
と常日ごろ言っていた。
新しいパンフレットを自分で作っていた。それは彼にとって仕事ではなく、仕事を越えた楽しい夢中になれる生き甲斐であった。
「まあ、お金を使ってする趣味と思えば、ねえ」
とわたしは子どもたちに溜め息混じりで言った。
その小さな会社の封筒の表には業務内容が印刷されていた。
『コジェネレーションシステム・自然力(太陽光発電・風力・ミニ水車)・各種発電機、以上の改造・修理・メンテナンス』
それらの仕事は夫が若いときにはサラリーマンの立場で、中年になってからは経営者として携わってきたものである。今、彼は人生の集大成のようなものとして、まとまったものを求めているらしかった。
「今ごろ、太陽光発電が流行りだしたがおれがずっと前から考えていたことだ。おれの仕事は、やさしく言うと省エネのために大きな貢献になるんだよ」
とわたしにたびたび言った。顔に得意そうな、照れた表情を浮かべていた。仕事内容に強い誇りをもっていた。
だが、夫の熱い誇りとは裏腹に世間的に見れば小さな会社にくる注文は発電機の改造修理が多いようだった。夫はそれらの現場の仕事で自ら高齢の肉体を酷使することがたびたびあった。
「修理や改造は必要なことなんだ」
と言って、その仕事を軽視したりすることはなかったが、肉体はかなり見えないところで蝕まれていたようだ。たまにとはいえ、七十歳過ぎて若い人に交じって徹夜をしていたのであるから。
それとなく聞きだした話では若い人の指導だけではなく、自分がやってしまえば簡単だ、と豪語して、実際にも手を出していたらしかった。わたしはそのような話を苦々しく聞いたが夫は体力を誇示して嬉しそうであった。
「新潟の海岸へ風車を建てたとき、うまく風車が回らないので、おれが柱の上まで上って直した。みんなが下から危ない危ない、と止めたけど」
その話はたびたび聞いた。
わたしは子どもたちと話しあった。
「お父さんの仕事は少し時代より先に進んでいたのね」
風車についても、最近いろいろ取り沙汰されるようになったが、夫が家でその話をさかんにしたのはかなり前のことであった。
「まあ、親父のように一匹狼的な性格の者は、報われないようになっているのさ。でも、あの歳であのエネルギーは、たいしたものだと思うな」
とサラリーマンになっている息子の譲は言った。
* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。しかくしょうがい者でプレクストークなどをお持ちの方に紹介してください
*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
著者片山郷子 定価1575円発行所 鳥影社
- もやい舟 (季刊文科コレクション)/鳥影社
- ¥1,575
- Amazon.co.jp
*ネット、書店、図書館などでお求めください。
もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
よろしかったらお知り合いの方にご紹介ください。
次号は1月11日に開いてくださるようにお願いいたします。
美しい花の写真が出る予定です
N0、46 _盲導犬・水埜さん・耳の読書・障害者週間_
KIKIです。
こんにちは みなさま、お元気ですか。
いよいよ師走に入りました。
一年中同じ暮らしをしている高齢者のわたしでも12月というと心が急かされます。
きっと世の中と隔絶していない証拠なのですね。それに選挙、街頭演説など聴かないわたしですが、ラジオを一日中ほとんどつけていますので、立候補者の名前を何度も聞いています。
投票する人の名前をマジックペンで練習して、期日前投票の会場にガイドさんと出かけます。
会場の入り口でガイドさんとわかれ、中は選管の人とあるきます。無事名前を書くことが出来たら、わたしを待っているガイドさんの所へ、出口へ向かいます。ちょっとよい気分で・・。
**わたしの小さな引き出し
*耳の読書(プレクストーク)
** 白檀の刑 バク・ゲン著
至福のとき(同上)
中国ののノーベル賞作家はペンネームをいくつかもっていたようです。白檀の刑の内容はすさまじい。至福のときはおもしろかった。
**盲導犬
「もし、目が見えなくなったら盲導犬を使いたい」というのが少女時代のわたしのあこがれでした。
そして現実は目はほとんど視力を失いましたが、盲導犬を手にいれることは出来ませんでした。
わたしは障害手帳を取ったのが60代半ばで、早速盲導犬の何々協会を二つ調べて電話しましたが、盲導犬を扱うのは60歳くらいまでと断られました。
犬と親しくなるためには合宿が必要で、犬との散歩などもかなりの体力がいるということです。
いちいちもっともなことで、ここでも、「諦め」というものが必要でした。
最近二匹の盲導犬のそばに座ることが出来ました。犬も飼い主も知らないことですが、心に秘めた片思いに後期高齢者のわたしは心ときめかしていました。
ヒトリはオットー。飼い主に似て毅然としているようでした。私たちが会食をしているとき、そのテーブルの下で身じろぎもしません。もうヒトリはマテイ。コンサートの隣の席にいました。きっとわたしが興味津々なのがわかったのでしょう。音楽が始まる前に飼い主の男性が名前を教えてくれ、「シットダン」と犬に命令しましたがお座りしません。
飼い主は「頑固なところがあるのです」とにこにこして言いました。
幕がおりるとマテイは座り、前あしをわたしの靴の上にのせています。
古澤巌さんの無伴奏ヴァイオリンソナタの演奏が始まりました。
するどく高い弦音、すると彼はほとんど聞こえないくらいの低い声でおなかのあたりでうなり始めました。
しかしすぐそれはやんで、わたしの靴の上から足をどけ、飼い主がしいたた薄い座布団のような上に落ち着きました。
休憩時間に犬を散歩させる人?がきました。飼い主はマテイを目に入れても痛くないという様子で、わたしが「触りたいけど、我慢しています」というと「触ると、その人に甘えたくなるようです」ということでした。
今のわたしの住まいは動物を飼うことを禁じています。わたしには犬や猫を飼ってそのぬくもりを楽しんだ時期がありました。楽しい思い出です。そして、もうそれはわたしには出来ないことです。夫が亡くなってから、すず虫、小鳥と買おうと思いましたが、いずれも見えないとえさや水がうまくやれないので、「諦め」ました・・。
** 水埜さんの講話(築地本願寺にて)
「当日、本願寺でご一緒に昼食を摂りませんか。」
というメールに誘われてでかけました。善良な紹介者の方が、いらっしゃいましたが。
水埜さんはあかるい献身的な奥様と盲導犬と一緒でした。わたしはガイドさんと一緒です。目が悪いことで生まれた出会いです。
水埜のさんは本願寺のホールでご自分の身の上を話されました。苦しみ抜いた内容なのに、暗さを感じさせない話し方が印象に残りました。
がんを発生して、がんの手術に成功されたのに抗がん剤の副作用で、・・
57歳で突然全盲に・60歳の定年まで勤めをされ定年後、本当の意味の第二の人生をおくってきていることのはなしです。明るく聞こえる声なので、じめじめした暗さを感じさせません。定年後の暗闇人。からの脱却、現在、ゴルフ、フ・傾聴ボランティア・盲導犬啓蒙などの仕事をされ、その体験を大勢の人々に語っています。
わたしは今後の水埜さんのお話の中に「見えなくなって見えたもの」「みえてきたもの」・・・をたくさん取り入れて頂きたいと思いました。
**障害者週間・国際障害者でー。
当区でも障害者センターで12月はじめに障害者作品展が開かれています。
会場に花を活けて欲しいとわたしに電話がありましたので、内心は花の色も見えないのにとんでもないと思いましたが、日頃何もお手伝いしてないことを思い、引き受けました・・・。ガイドさんがいけたようなものですが、その花の写真をこのブログの48(1.11発行)に載せる予定です。どうか
お楽しみに!(自分のことばかり書いてごめんなさい)
*2011.3,11金曜日14.46.
先日また、わたしの家でも感じる少し強い地震がありました。震源地が三陸灘といってましたが、こわかったです。東北の人はさぞ、と思います。寒いです。お体お大事に!!
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
いつものとおり、先に大風呂へ入って偵察してきた夫が言った。
「大理石で立派だけど足許が歩きづらい。女風呂も同じ構造のようだから君では無理だ」
わたしたちはしばらくして家族風呂へ入ることにした。家族風呂はいくつもあった。その一つの扉から、ふたりの幼児を連れた母親が出てきたので、そこへ入った。まだ幼児たちの陽気な笑い声が浴室の天井から壁に転げ回っているようであった。
夫婦は湯船の中に向かいあって座った。湯は透明であった。会話も動きもなかった。夫がどのような顔をしているのか。顔が見えないことがわたしには気楽だった。
しばらく、湯が流れ落ちる音だけが静かに聞こえた。夫は自分がかつてやった仕事を思いだしたらしく話しだした。
「流れ落ちる湯は浄化され循環されて、また使われる。湯は無駄にされないんだよ」
夫は温泉宿の非常用発電機、風呂の浄化槽などの電気の設備の仕事をやっていたことがあった。群馬や長野など近県の温泉宿を廻った。
こんなことがあった。
「今回は仕事が明日の昼ごろ終わるから、伊香保の○○温泉のロビーで待ちあわせよう。一緒にそこへ泊まろう」
と言われてひとりで伊香保まで行ったことがあった。坂の多い伊香保の街を苦労してその旅館を探し、夫を待ったが夕方になっても来なかった。仕事の都合で遅くなるのだろうと思って待ったが、夕食時になっても姿を見せなかった。わたしは空腹と恥ずかしさでかっかとしてきた。携帯電話のない時代で電話連絡もなかった。
そのようなことが二回ほどあって、わたしは仕事に関連した旅行はきっぱりと断った。夫は仕事にケリがつけば自分の気持ちは晴れて、わたしを待たしたことなど気に留めなかった。
「行方不明になったわけではなし、会えたのだからいいじゃないか」
わたしのいらいらにそう答えていた。
家族風呂の中で、温泉の再利用の話を聞きながら、わたしは別のことに心が行きだした。
このようなゆとりが……、また来年あるだろうか、また来年ということが……。
それは昨年思わなかったことである。失いつつある視力の代わりに生じた鋭い神経が、ふとそう感じさせたのであろうか。それとも予感というものだろうか。
わたしたちは背中を流しあうこともなく、老いた夫は指一本、妻に触れることもなく風呂を出た。
その夜、夫が寝入った後もわたしは眠れないで、何かの足音を遠く聞いていた。不安がわたしの身にまとわりついていた。
* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。しかくしょうがい者でプレクストークなどをお持ちの方に紹介してください
*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
N0、45 _網膜色素変性症②・大磯・耳の読書_
KIKIです。
こんにちは みなさま、お元気ですか。
立冬が過ぎ、冬になりました。わたしはインフルエンザと
肺炎の予防注射をしました。注射代は風邪は無料で肺炎は3200円でした。
それから44号にコメントくださった方々ありがとうございます。励みになります。
**わたしの小さな引き出し
*耳の読書(これから毎回プレクストークで聞いた本をのせることにしました)
/時わすれ 耳で本読む 床暖房/
・レ・ミレザブル ユゴー作
フランス語で虐げられた人、という意味だそうです。わたしはこの本を目が良いときは文字でも読んでいます。子どものころは少年少女世界名作全集で、ああ無情、といいました。
大人のほんとしては、ジャンバルジャン、という題だったと思います。
フランス革命当時地下の下水道路がパリの市街地の下に縦横に作られているのに関心しました。
今回はデージー図書が6枚で何十時間の聞きものでした。
ジャンバルジャンの生き方に何度も感動の涙を出しました。
いつの時代でも貧しさが原因で不条理の世界に生きなくては生らない人々のことを読むと胸がふさがります。
*毎年秋になるとあちこち出かけたいと思います。しかし、秋は短い。
特に今年は残暑が長く続き、暑くも寒くも亡い良い日和というのがすくなかったようです。
・秋の花火
娘に誘われて荒川の花火をこれが生涯最後の花火見物だと思って行きました。10月の夜です。右目を覆って左目だけでは、あの大きな花火が見えませんでした。
・上野公園
白く輝く噴水がありました。いつできたのでしょうか。
・大磯
湘南ライナーが出来て大磯の静かな駅を通過するとき、一度下車したいとおもっていました。
ガイドさんと行きました。
思っていたように静かな街で、島崎藤村の簡素なお墓があり、うれしかったです。
藤村のゆかりの地、小諸、馬込と行ったことがありました。
・荒川
土手を歩きました。皮からの風がさわやかで、小春の陽が背中に暖かでした。
・副音声付き映画
「スラムドック$ミリオネア」イギリス
2009年公開。インドのスラム街に育った少年がクイズで大金を射止め、ハッピーになる話。
*ミニトマト
11月下旬を過ぎましたがわたしのベランダにはミニトマトの鉢が一つ、まだおいてあり、水もやっています。
葉っぱは手でさわると枯れていますが、ミニトマトがヘルパーさんの話だと9個なっているというのです。
5個取って食べています。小春の陽がトマトにあたっていますが、赤くなるかどうかはわかりません。
色が見えないので残念です。あと1週間もしたら9こをみんなとって青くてもきいろでもたべてしまおうと思っています。
ヘルパーに取ってもらわなくてはなりません。愛しく育てたトマトたち、みんな食ってしまうぞお・・・。
*網膜色素変性症②
わたしは10年ほど前、その病名を診断されました。
始めて聞く名前でした。
「日本で出来るほとんどの検査をしました」と担当医に言われ、教授が診断をくだし、東京都に難病の医療権を申請するとよいでしょう、と言われました。
痛くて苦しい不安な検査を三日間くらい通って受けました。
そして、それ以来、点眼と毛細血管にきくというのみくすりをずっとのんでいます。
すこしは進行をおくらせたのではないかと思います。
地元の女医さんには網膜色素変性には薬は不要と言われましたが、わたしは大学病院の担当医の指示に10年以上従っています。
最近は東京都の障害者センターの女医さんに栄養のあるものを食べるように、がんばりなさいと優しく言われました。
*2011.3,11金曜日14.46.
先日ラジオで母子家庭、父子家庭、祖父母と孫家庭の話を聞き心を痛めました。津波で親を亡くした子どもたちは、一生悲しみから抜け出せないのでしょうか。
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
我が家では食卓の傍らに大きなテレビがあった。ひとりのときはラジオを聞いている。夫がいるとラジオを消してテレビをつけた。
いつからか、夫はニュースのときなどテレビの画面下に出る文字を省略してだが、わたしに読んでくれるようになった。
身近に暮らしていると相手の見えない肉体の変化になかなか気がつかないで気がついても少し前は普通であったのだから、と理解するのにも時間がかかるのだろう、とわたしは少しずつ夫を思いやることができるようになった。わたしもまた、なりたての未熟な視覚障害者であった。
「その年」の夏のさかり……。
例年どおり、熱海の花火見物へ行った。わたしは花火大好き人間であった。
「花火はよく見えるのよね。見える人との比較はわからないけど、わたしにも大きな菊やボタンの花などきらきら、ひらひら大きく空に開くのが分かるの。色の変化も分かるの。若いころと同じように見える気がするの。それにあの音が好きよ」
花火が見える宿は早めに予約しなくては満室になった。
「昨年と違うホテルだけど、良さそうなので日も決めて予約してきたよ。いいだろう」
春のころ、夫は御機嫌な様子で帰宅すると言った。
わたしたちには少し高いホテルだったが、わたしは内心このような花火見物がこの先いつまで続くか分からないとふと思って、賛成した。夫がひとりで代理店へ行って決めてきたことも嬉しかった。それまでは多忙な夫はすべて私任せであった。またわたしたちは、来年の部屋を前年に予約しておくという利口な便利な方法を取らないで、その年になるとまた新しくあちこちのホテルを探すという不便な方法を夫婦して好んでいた。
わたしたちは昼近くに家を出た。湘南新宿ライナーで小田原まで出た。改札を出て昼食を食べる。ついでに小田原城や海岸まで出たこともあった。
小田原からのんびり鈍行の電車に乗って熱海に着いた。
その夜、大きなガラス戸越しに花火はいっぱい拡がっていた。七階の広いベランダにゆったりと置かれたソファに半ば横になってわたしたちは花火見物を楽しんだ。打ち上げの音は豪快に心の扉を叩くようであった。
海岸通りを花火の打ち上げ場所の近くへ向かって、声高に話しながら、移動して行く人たちが大勢いることがベランダの窓を少し開けてみると、そこから飛びこんでくる雑多な騒音とともによく分かった。
* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
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*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
著者片山郷子 定価1575円発行所 鳥影社
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もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
よろしかったらお知り合いの方にご紹介ください。
次号は12月11日に開いてくださるようにお願いします。
N0、44 _網膜色素変性症①・耳で本を読む_
KIKIです。
こんにちは みなさま、お元気ですか。
晩秋ですね。わたしはこの言葉が好きです。
季節を表す言葉は、みんないいですね。「小春」「初冬」・・・。
**わたしの小さな引き出し
*時わすれ 耳で本読む深き秋
わたしはぷれすとーくというCD再生機械で本を聴いています。
デージー図書といって一枚のCDに何十時間の長編小説も、この一枚に入ります。
途中で聴くのをやめても、また同じページがひらきます。
ページを元に戻すのも、好きなところへすすめるのも簡単な操作で出来ます。
*耳の読書
*赤いコーリャン
ノーベル文学賞を受賞した中国の作家 バク言昨。
中国の人名を耳で覚えるのは、とてもむずかしい。本の内容はとてもよかった。強烈で人間の本能丸出しで・見にくく、美しい・・。
*網膜色素変性症
5年ほど前、網膜色素編成の会主催の話を聞きに行ったことがあります。雨の日で、たしか、新幹線に乗って京都から見えた先生の話で、人口の網膜で(10年後を目指して色素編成)の網膜手術をヒトに行えるようにしたい、というような話でした。わたしはそのとき、自分なりに一般の人が手術をうけられるのは20年後、50年後かもしれないと思いました。そのときは将来、この難病が治せるようになるとは、とても信じられませんでした。山中博士のノーベル賞発表の少し前にラジオでIPS細胞で網膜が出来る、という放送を聴いて、NHKラジオにその話の詳細を電話で問い合わせしました。そしてそのとき、思ったのです。年齢的にわたしに手術は無理でも若井ヒトたちには希望がある、可能性があると。わたしでなくても、若井ヒトに、それはわたしの心を明るくしました。そして今回のノーベル医学賞。
現実が少しづつ近づいてきました。濃霧に隠れてまったく見えなかった山がかすかに見えてきたのです。治療不能の難病が。
昨日ラジオでIPS細胞をつかって(加齢黄斑)のヒトへ(IPS細胞の移植)の許可申請を神戸の医学チームがだすというような放送をしていました。知人にこの病気のヒトがいます。彼女は電話口でいつも見えないことを嘆いていました。
わたしたち高齢者は年齢的に自分は間に合わなくても、若い人には間に合う、ということが希望です。
医学辞書の網膜色素編成のところにある説明文、治療不可能な難病、失明に至る、という文字はやがて削除されるでしょう。医学の進歩に乾杯!
*小学校の娘さんが、弱視で、どうしてもこれ以上の視力がでないと診断された母親がいました。
彼女は娘の将来を考えて、ハンデイを乗り越えさせるために、勉強をさせようと思ったそうです。
中学は進学校を目指して受験させようとしているようです
。今の日本ではどの大学も視覚障害者をうけいれるようです。
東大は一部を省いた医学部でも受け入れると聞きました。
娘にたしかなものをミニつけさせようとしているようです。
目の悪い小中学生に障害者と正常のはざまにいるこどもたちに、目を医学的に診断して、将来の道を指導、助言するヒトはとても必要です。特に、「はざまにいる子どもたちは両方の手から漏れる恐れがあります。わたしにも「目の指導者」はいませんでした。将来を考える時期に、ひとりで悩み、右往左往していたものです・。わたしの頃と時代が変わりました。今はいろいろな情報が手に入り、視覚障害者のための器具が出来ました。
*2011.3,11金曜日14.46.
寒さに向かって大変なことと思います。がんばってください。
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
夫は区の定期健康診断を受けていたが、数年前からタンパクが出ていて血糖値も高かった。
しかし自覚症状がなく、近所の顔見知りの個人医院へ行かせるまでに、どんなに手間をかけさせられただろうか。自分の頑強な肉体を信じていて大学病院へ行っての検査など見向きもしなかった。
糖尿病は重くなると失明するのよ、と脅かすと眼底検査でも何でもなかった、視力も落ちていないと言って、食卓の上でもトイレへ入るときでも字の細かい文庫本を片手から放さないのが、わたしから見ると小憎らしかった。
妻はどうやっても文字が読めなくなった。本好きな妻である。その妻の前でやたらに読書をしない、そのような配慮が、ときどきでもいい、現実に存在するものかどうか、とわたしは考えた。妻のいるときは妻と一緒にラジオを聞く、音楽を聴く、というような夫(妻)が存在するものかどうか……。
夫の健康について、四国旅行を思いだすと、もう国内でも遠くには行かれないのではないかと心配した。だが夫は旅行へ行きたがった。
「行っているようで行っていない穴場のようなところが案外あるものだ」
と言っていろいろな地名をあげた。
「秋ね、涼しくなったらね。四国でお金使ったし」
と答えると夫は不満そうな様子で無言であった。
わたしは医者へ行くほどでもない軽い風邪のとき夫の行っている近くの医院へ行った。名を呼ばれて診察椅子に座ると挨拶して夫の容体を聞いた。
「奥さんですか」
と医者は言ってカルテを見ながら、とにかく処方された薬をきちんと飲んでくれればいい、と言った。中年の一見穏やかそうに感じられる医者であったが、医者の指示に従わない夫にかなり厳しいことを言った。
「病気を認めるのが怖いのですよ」
そうであろうか、と思ったが黙っていた。根本的に楽観的な夫は、今までの仕事のように病気も何とかなると思っているのではないか、と思った。わたしは食後の薬を長年飲んでいたので夫の薬も食後にならないかと訊いたが、糖尿の薬は食前でないと効果がないと言われた。
強い声で夫に言っていた。
「わたしは目が悪くてあなたが病気になっても看病できないのよ。自分で自分のことは気をつけてくれなくては困るわ」
夫は返事をしなかった。最近は気に入らないことには返事をしなくなった。無言で、苦虫をかみ潰したような顔をしているのが、目が良い人のようにわたしには見えた。
そうなったのはわたしが目が悪くなったからだろうか……。
わたしは一緒に住んでいる夫婦である夫が妻の目の変化をいちばん理解できないのではないかとたびたび思って、悲しく苦しんだ。食卓の上のソースや醤油の瓶がそれまで見えていたのに、いつの間にか妻の視界から消えだした。だが、見えないと思ってもときには見えることがあった。目の微妙な視線の位置で視野が開いているところへ小瓶がちらっとでも入ればそれが何かわかった。視野が欠けたところへ物があれば目の前の物も見えない。わたしの視野の欠け方は周辺だけというのではなく、まばらであった。
いつからそうなったか。
それは本人もはっきりと分からない。それまで、夫の皿に醤油やソースを入れて世話をしていた妻がそれをしなくなった。自分だけ入れている。やがて、目の前にある醤油瓶を、
「どこにあるの」
などと訊く。妻自身がその目の変化にとまどっているのだから、他人の夫はとまどって当たり前だったかもしれない。妻の視線はよく動き、以前と変わりなくいろいろな物を捉えているように思える。
「見ようとしないから見えないのだ」
という言葉が夫の口から飛びだした。
それはわたしの心を鋭く抉(えぐ)る言葉であった。わたしは心の中でわっと泣いたが、涙は瞼(まぶた)で止めた。瞼が熱くなり、わなないた。
わたしは依怙地(い こ じ)になって、石になって、石のような声を出して、
「醤油瓶はどこ」
と繰りかえした。手を伸ばして探れば分かることであったが、そうしなかった。
「ここにあるじゃないか」
夫は醤油瓶を音を立てて、妻の目の前に置いた。そのときわたしの心に凶暴な感情が湧いた。醤油の小瓶を壁に向かって叩きつけたくなった。だが、そうしなかった。長い間の主婦業の習性はこなごなに壊れた瓶の掃除のことを頭に浮かべた。心は急速に冷えていったがその修正も悲しかった。
日常の些細なことに妻は夫に何かを執拗に求めるようになった。夫は妻を持て余してきたようだ。
わたしは思った。
一時間だけでも目を交換してわたしの現状を正確に知らせたい。それは夫だけではない。見えるのに見えないふりをしているのではないかと疑いと差別の意識で、わたしを見る目の良い人々、全く思いやりのかけらも示さない人々、想像力のない人々に、こういう目もこの世にあるのだと知らせるために、一時間だけでいい、目の交換をしたいと思った。
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* (もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。しかくしょうがい者でプレストークなどをお持ちの方に紹介してください
*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
著者片山郷子 定価1575円発行所 鳥影社
*ネット、書店、図書館などでお求めください。
もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
よろしかったらお知り合いの方にご紹介ください。
次号は11月25日に開いてくださるようにお願いします。
N0、43 _食事会・夏の思い出・弟_
タイトル濃霧の中から生まれ出る2012.10.25発行
KIKIです。
こんにちは みなさま、お元気ですか。
もう10月も終わりなのですね・・・。
*わたしの小さな引き出し
*食事会
わたしの住んでいる団地では月1回、ボランテアの人たちが75歳異常を対象に食事会を開いてくれます。食事代は300円で、コーヒーもつきます。
今回わたしは欠席しました。いつも一緒にいってくれ、隣の席へ座って、ごはん、何々の味噌汁、何々のおかずなどと説明してくれ、話もするNさんが、中学生の孫の運動会をご夫婦で見に行くため、欠席なのです。
わたしは臆病になりました。食事会は欠席しました。
Nさん以外にも知り合いはいますが、それほど親しくありません。
わたしは人見知りをするようになりました。出席すれば、ボランテアの方や知らない人が親切にしてくれるでしょう。
でも行きませんでした。
人間に用心深くなったのです。
気が弱くなってきたのです。
食器の中の食べ物が見えないので箸ではさむのに苦労します。
器を片手で持つと緊張でぶるぶる震えます。
気を許せる人との食事ではそれほどでもないのですが。
心が、平常心になろうと努力する心が、わたしの手をぎこちなく、時にはぶるぶるふるわせます・・・。
*夏の思い出
と、書くと何かロマンチックなことを書きたいのですが、映画や歌のような激しい恋も淡い恋も老いの恋いもありませんでした。
ベランダの1本の秋トマトから、10月に入って、ようやく小さな2こ、そして超ミニが3ことれました。
赤いそうです。
たった5こなので、だれにもあげないで、一人で食べました。おいしかったこと!来年はみんなに配れるようにしたいものです。
一時は毎日水をあげていたのに、トマトがならないので、わたしの人生みたいとなげいたので、ヘルパーさんなど家にくる人々が、どれどれと言って葉の間から小さなトマトをさがしてくれました。
今年の夏は異常な高温で40度近い気温のところがあり、
わたしものびました。いつも130くらいの血圧が170を超して、医者へいくようになりました。
軽い血圧を下げる薬をのんで、今は元にもどっています。
朝晩血圧を測るようになりました。音声つきの血圧計が売っていました。わたしの
体重計も体温計も音声つきです。
それでなくては、ひとりで暮らせません。
息子一家と秩父へ一泊旅行にいきました。
家まで、息子が送迎してくれ、5人で車ででかけました。
しかし、わたしは心の底から楽しめませんでした。
ただ、中1の孫娘が、わたしがひとりになるとよってきて、小鳥のさえずりのような声でわたしにおしゃべりするのでした。
本好きな孫娘は読んだ本のこと、学校のことなど、やや早口のキレイな声でさえずりました。
その声を思い出すとわたしは幸せな思いを味わいます。
この子には数年前ハードカバーのキレイな挿絵つきの「小公女」の古いむかしの本をあげました。
「もらったころは文字がちいさくてよまなかったけど、今はみんな読んだ」
と言いました。この本はカナがふってあるのです。
小公女のようにやさしく強くプライドを持った少女に成長してほしいものです。
孫娘の話から想像すると彼女のいっている中学でもまったくいじめがないとはいえないようで、男子と女子のそれとは少し違うようです。
孫娘とは時々メールのやりとりをしています。
彼女は自分が祖母にこんなに慰めを与えているとは気がつかないでしょう。
*おとうと
3回忌を迎えました。69歳で亡くなりました。昔のことを思い出します。
弟が小学校2年生で、突然、母から引き離されました。
母は結核だったので、病院へ見舞いにもいけませんでした。
気が弱くしくしく泣いても大きな声でないたり大きな声を出したりしませんでした。
結婚生活もあまり幸せではなく、悲しい一生を終えたように思え、おとうとを思い出すと涙が出ます・・・。
しかし、世の中には不運な生涯を終える人がたくさんいるでしょう。
それなりに生きるより仕方がないのでしょう。
*2011.3,11金曜日14.46.
価値観がめまぐるしく変わっていますが、このひを境に、
一層変わっていくように思います。キレイなコートや建物より、中味を見るようになってきているのではないでしょうか。
*小説「もやい舟」より引用」*引用文はとばしてあるところがあります
惜別
夫は元気で宿へ着いたが、部屋へ案内されると座布団を二つ折りにして、畳の上で小一時間ほど眠ってしまった。
夫は食事の前に風呂へ入って、大風呂の様子を見てきてくれた。
「階段が入り口に三段あるだけで、中はでこぼこがない。女風呂も同じようだから大丈夫だ」
夫は女風呂の前までわたしを送ってきてくれた。
「そこら辺、見物して三十分ほどしたらまた、ここへ迎えに来るよ」
「うん、お願い。女風呂、覗いたらチカンと思われるから気をつけて」
わたしは夫の背中を見送り、大きく湯と書かれた暖簾をくぐった。大きな旅館の大風呂は地下二階や屋上にあり、長い廊下を渡りエレベーターにも乗る。わたしは一人では行き来ができなくなっていた。旅館の中で迷子になってしまう。それに風呂の中も階段などが多いと転びやすいから入れない。
「風呂の中の構造は男女ともだいたい同じようだから」
と夫が言いだしてまず夫が男湯に先へ入って中の様子を偵察してきてから、わたしが入るようになった。
女の大風呂は空いていた。夫が言ったように段差がほとんどないので助かった。わたしは滑って転ばないようにそろそろと歩いて、湯舟に浸かった。温泉の湯がぬるぬると全身の隅々まで行き渡って心を解かしてくれる。ぼんやりと数人の女体の背中が湯気の中に浮かんだ。
わたしは小さな幸せな気分になった。目が良いころは感じなかった幸せ感である。当たり前の人は当たり前として流してしまうものをわたしは捉えて感じた。
過日、娘と温泉に入ってわたしの方が子どものように手を引かれて歩いたことを思いだした。生まれたままの裸だから、わたしは特に感慨無量のものがあった。娘の幼女時代のぴちぴちとした裸ん坊を思いだしていた。
のぼせ性のわたしは身体をろくに洗わないで風呂から出て、夫を待った。夫はすぐ二本のジュースを手にぶらさげながら笑顔で近づいて来た。
部屋へ戻ると食事の用意ができあがっていた。夫はご飯のおかわりはなく、天ぷらを残したがあとはきれいに食べた。最近ずっと少食でその方が身体の調子がいいと言っていた。布団に伏せて、テレビを見ていたが、五分もしないで寝入ってしまった。
わたしはテレビを消し旅先のもの想いにふけった。夫の漠然とした疲労がわたしに不安となって伝わってきていた。
翌朝、夫は早く起きて、宿から貰った観光地図を熱心に見て、バスや列車の時刻表などを調べていた。元気そうで、自分の体調を気にしている様子はまったくなかった。笑顔で、
「土佐一帯は戦国時代の末期、長宗我部(ちょうそかべ)氏が治めていたが家康によって山内(やまのうち)一豊(かず とよ)の領地になって……」
と大好きな歴史の話をはじめようとしたが、わたしは遮って言った。
「四国って思ったより広いのね。交通の便が悪いというのかしら。宿から宿へ行くだけで大変ね」
「三泊じゃなくて四泊にすればよかったな。高知城は見たから、これから宇和島、松山城か。足(あし ずり)摺(あし ずり)へまず行こう」
夫の意欲的なところはいつもと変わらなかった。しかし、旅行中、夫の元気なのはほぼ午前中だけで、昼食をとって休憩したころから、疲れが目に見えて出てきた。トイレが近く我慢できなくなる。足の疲れを見せまいとして頑張っているのが、長年連れ添っている妻にはひと目で分かる。だが、わたしが疲れを口にすることを嫌った。
「君に疲れたろう、って言われると疲れが出てくる。黙っていてくれ」
それでわたしは自分のこととして言うようにした。
「ねえ、足が痛くなった。ふくらはぎがつりそう。お腹も痛くなった。予定を変更して早く宿へ行きたい……」
夫はわがままな奴だ、という顔をしてわたしを見て、それでもわたしの言うことを聞き入れるのであった。
帰路は松山から飛行機に乗った。
* もやい舟はデージー図書として、日本ライトハウスと
神奈川県相模原市朗読奉仕会)ででています。しかくしょうがい者でプレストークなどをお持ちの方に紹介してください
*「もやい舟」第四作品集 短編小説4編とエッセイ1編が入っています。
- もやい舟 (季刊文科コレクション)/鳥影社
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著者片山郷子 定価1575円発行所 鳥影社
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もやい船の**点字訳の本が出来ました。!!点字を読める方に無料でお貸しいたします。
このページをひらいてくださって、有難うございました。
次号は11月11日に開いてくださるようにお願いします。


