意識改革② 怒る その1 | 桂慶治朗のブログ

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意識改革②怒る その1


今年の意識改革の二つ目が


「怒る」

ということについてなのですが、


その「怒る」ということについても

認識し直したことが二つあります。


一つは今までの自分の怒り方

一つはそもそものその必要性についてです。


近しい人はよく知ってくれているのですが、

元々私はよく「怒る」方です。方でした。


短気なわけではないです。

理不尽に感情的になる自己中心的な人間でもないです。(はずです)

気分にやたらムラがあるわけでもないです。

ここでお話ししている「怒る」とは

いわゆる注意叱責のことです。


例えば、

電車の中でうるさくしている人、

イヤホン無しで動画を見たり、

ゲームをしたりしている人、

順番を横入りしようとする人には

直接注意しに行ってましたし、


時間指定の荷物が

指定外の時間に届けられると、

なぜこの時間に来たのか

問いただしてましたし、


説明がなかったせいで

不利益をこうむったときには、

なぜ説明がなかったのか

こんこんと問い詰めてました。


初めて会った、

知らない人にですらこれですから、

知ってる人には余計です。

自分より立場の弱い人、

後輩や若い人にはもちろんですし、

ときには立場が上の人にも

迫っていってました。


過去形にしているのは

ここ1.2年はそんなことしてないつもりで、

自分では「変わったかな」

思っているからです。


なぜしなくなったのか。


正直、上記のことは

別に悪いことではないと思います。

気づいていない人に

気づきを促すことにもなりますし、

同じような思いを抱えながらも

それを言えない人の

代弁になるときもありますので。


にもかかわらず、

なぜそれをやめようと思ったのかは、

理由が多岐にわたりますので省きます。


しかし、

最近、なぜそのように怒っていたのか、

注意叱責をしていたのかを、

改めて振り返りまして、

大事なことに気がつきました。


結論から言いますと、


私の注意叱責は結局、


自分本意だったんですよね。


もちろん、

相手に間違ったことを正してほしい、

他の人に他の環境で同じことをしないでほしい


という正義感にも似た感情も

確かにあったとは思います。


ただ、



それだけじゃないんですね。


まず、

そもそも私には二つの気質があります。


一つは、

自分が守っているルールを守らない人は許せない、

そうすべきことをしない人は許せない

という気質。

もう一つはやられたらやり返す報復気質。


そして悲しいことに、

一つ目の「許せない」という思いの中身は

正義感・義憤という感情だけでなく、

半分以上の割合で、


「ムカつく」なんです。


つまり、

私にとって間違った人を正そうとする行為は、

多くの場合

「正しさを盾にして相手を屈服させる」

もっと乱暴に言いますと、

「ムカつくことされたから仕返しとして、

反論できない形でねじ伏せる」

という行為やったんですね。


ですから、

ただ注意叱責するのではなく、


言葉や言い方がきつかったり、

語気を強めていたり、

わざと感情を表に出したり

していたんだなと。


間違いを正す際に

怒り(ムカつき)が大きすぎて

どうにもおさまらず感情的になってしまう、

それ自体は

悪いことだとは思いません。


しかし、

相手に間違いを正してほしい、

間違いを繰り返さないでほしいというのが

本当の目的なら、必要なのは

それが相手に真に伝わる方法であり

それを見極めることですので、


あえて言葉や態度をキツくしたり、

荒げたり、感情的にして

相手に投げつけるのは

自己満足以外のなんでもありません。


ですから私は自戒の意味も込めて、


この

「正しさを盾に

相手を屈服させようとする行為」を


正論ビンタ


と呼ぶことにしました。


これを認識することでわかりましたが、

この行為は自分の中身に対して、

めちゃくちゃ気をつけなければいけません。


そうであったと振り返ることができますので

私はよくわかるのですが、


この“正論ビンタ”


必ずといっていいほど

[快感]が伴います。


「きんもちい〜〜」


というやつです。


これを「やろう」というときには、

怒り伴っていることが多々あるので

なかなか気づきにくくはありますが、


これをかましたときの感覚に

名前をつけるなら、

それは間違いなく

[快感]という言葉になります。


そして快感である以上、


[欲求]が出てくるんです。

正論ビンタ欲求です。

「誰かに正論ビンタをかましたい」


さぁそうなると

正論ビンタチャンス

つまり誰かが間違う瞬間を

待つようにもなります。


ひどいときには、

目の前で間違いそうな人を見過ごしたり、

もっとひどいと

間違うように仕向けたりもします。


そこまでいくともう

人として非常に残念な人です。


幸い、私はそこまでいくことはなかったと思いますが、

正論ビンタ欲求が少しでもある以上、

その残念さは常に

その延長線上にあるのではないかと思います。


自分が世の中で守りたいと思う部分を

侵害されて

感情的になることは仕方がないとは思います。

また、守りたい部分に

相手自身のことが含まれることも

実際にあるとは思います。


最近賛否両論がある

「あなたのことを思って」で

本気で「怒る」ことはあることだと。


しかし、

「あなたのことを思って」

と言いながらも、

実はそこに正論ビンタが潜んでいる

ということも大いにありえます。


人の間違いを目の当たりにしたとき、

そしてそれを正そうとするとき、


そこに

正論ビンタが潜んでいないか

これからはしっかりと自省しながら、


今までの自分の、

「人と接するときの間違い」を

正していきたいと思います。


と、


またも全然面白くない話ですみません。



まぁこの記事で何がしたかったかというと、


正論ビンタという造語が気に入ったので、

少しでも知ってもらいたかった


という話しです。てへぺろ。


慶治朗


何も載せる写真がなかったので、

夏に子供連れて

神戸のアンパンマンミュージアムに

行ったときの写真載せます。

ジャムおじさんみたいな

優しい人になれますように。