今年最後の記事は、ちょっといい話で締めたいと思います(≡^∇^≡) |
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■インド人にはなぜ親日家が多いのか?
そして中央に描かれた糸車は、民族・大衆の象徴とされている。そういえばかのガンジーも、糸車を回しながら民族の団結を呼びかけていた。 インド戦当日。ソルトレーク・スタジアムを訪れた私は、地元の少年たちからすれ違いざまにビニール製のインド国旗を手渡された。 ずい分と粗末な作りだったが、それでも国旗は国民の誇り。 ジャケットの胸ポケットにそっと刺して、しばし会場の周囲をぶらつきながら撮影していると、すれ違う人々は皆、私に素敵な 笑顔を振りまき、そして握手を求めてきた。 アウエーの試合にしては、いささか拍子抜けするほど、インドの人々は私たち日本人に対して深い親愛の情を示してくれる。 先日、レストランで相席になった地元のビジネスマンに、インドではなぜ親日家が多いのか尋ねてみた。 彼の答えは、このようなものであった。 「さあ、考えたこともありませんね。ただ、われわれの日本人に対する親愛と友好は、少なくともチャンドラ・ボースの時代から続いていることだけは確かです」 チャンドラ・ボースとは、コルカタが生んだインド反英独立運動の指導者である。 英国支配からの祖国独立を目指していた彼は、第2次大戦中に「敵の敵」であ るナチス・ドイツと日本に軍事協力を申し出、旧日本軍のインパール作戦にも従軍。 一時は自由インド仮政府の首班に就任するも、真の独立を達成できないまま日本は敗戦を迎え、自身も終戦直後に台湾で飛行機事故による不慮の死を遂げた。 当地では今もチャンドラ・ボースへの歴史的評価は高く、ここコルカタの国際空港にも彼の名が冠されている。 そしてその遺骨は、故国から遠く離れた東京・杉並の蓮光寺に仮安置されているという。 戦後になっても、 日本とインドとの友好関係は途切れることなく続く。 1949年、時のネルー首相は日印両国の友好の象徴として、上野動物園にインド象のインディラを贈呈。 まだ戦争の焼け跡が残る当時の日本の子供たちにとっては、何よりのプレゼントだったことだろう。 一方、60年代半ばからインドで発生した大飢饉に際しては、日本で「インディラのお返しをしよう」と義援金を募る活動が展開された。 日本とインドの交流史をひも解くと、こうした話がいくらでも出てくる。 スタジアムの電光掲示板は、試合の間ずっと、こんなメッセージが表示されていた。 「LONG LIVE INDO-JAPANESE FRIENDSHIP」 短期連載 宇都宮徹壱のコルカタ日記(9月8日)
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