南北朝動乱は長期間続くのですが、名立たる武士たちはほと
んど足利氏率いる北朝に流れてしまい、南朝の主力は公家で
す。それでも動乱が長く続いたのは、何故でしょうか?
一般には「戦力差は歴然で、長く動乱が続いたのは三種の神
器を戦力の劣る南朝が手にしていたから」という風に、理由
づけられています。
しかしそればかりとは、言い切れません。戦においてもしば
しば南朝は北朝を破っていて、公家主体の南朝が意外と強く、
武家相手に善戦しているのです。武家以上に強い公家が、護
良親王の後にも結構いたのです。
『神皇正統記』を書いた北畠親房という人物がいますが、名
前を見ると武士のようですけれど、実は公家です。そしてそ
の長男の北畠顕家は、強い公家の代表と言えるでしょう。
平氏に「武家平氏」と「公家平氏」がいたように、源氏にも
「武家源氏」と「公家源氏」がいました。そして北畠顕家は、
公家源氏の中でも最高の家格といえる「村上源氏」出身でし
て、肖像画の顔を見ても貴公子然としていて上品です。
しかし北畠顕家は16歳にして陸奥守に任ぜられ、陸奥の多
賀国府に下りました。そして1335(建武2)年12月、
足利尊氏が鎌倉から西上を開始すると、奥州軍を率いて尊氏
を攻めたのです。
顕家率いる軍は、京都や摂津で足利軍を破っているのです。
尊氏は、九州に逃散しました。
足利尊氏に勝利したのだから、陸奥への帰還は顕家にとって
「凱旋」のはずでした。しかしそうならないのが、尊氏のし
たたかなところです。戦いの中、顕家が留守となった陸奥へ
使者を送り、在地武士たちを懐柔していたのでした。おかげ
で陸奥へ戻った北畠顕家は、尊氏側に寝返った在地武士たち
と戦わなければならなくなります。
予期せぬ戦いの中、勢いを1度は失う顕家ですが、その後し
っかり立て直します。この北畠顕家という人物、かなりの逸
材だと思うので、明日もまた続けます。