孝明天皇は1866(慶応2)年12月25日、京都御所の奥
で息を引き取っています。まだ35歳。死因は「痘瘡」と
されています。
『孝明天皇紀』によると、発病したのは12月11日。し
かし23日までは典医団の治療によって病状は順調に回復
していたそうです。『孝明天皇紀』は正史なので信用が出
来るのですが、回復の様子も詳細に記録されています。
ということで、23日から崩御の25日までに謎の病状急
変があったということになります。
開国派にとってあまりにも都合の良いタイミングと謎の急
変・急死だけに、「毒を盛られての暗殺」という疑惑が出
るのも当然です。
よく「開国の志士」とか「明治維新の志士」などという言
葉が使われますが、この志士たちというのは多くが長州の
下級武士であったり下級貴族です。つまり自分たちの下剋
上もかかっているので、必死です。執念がありました。な
ので毒を盛るくらいのことをする輩がいても不思議はない
ということです。
ならば犯人は誰か?一番毒を盛れる立場にいるのは典医団
ですが、彼らにやる必然性がないし、もしやるとすれば、
もっと上手くというか、疑惑が起きないように徐々に弱ら
せるという方法が出来たはずです。
下級貴族で金欠のため賭博場を経営していた不良貴族、し
かし頭脳も働き、上昇志向が強い野心家で、孝明天皇の死
後すぐに「王政復古」の大号令を出した岩倉具視が暗殺を
手引きしたという説が、とても有力です。