本多重次は戦では抜きん出た力を発揮し、「鬼作左」という
異名を取るくらいでした。
「三方ヶ原の戦い」においては、馬を射られて落ち、敵10
騎に囲まれたそうです。しかし敵の突き出した槍をたぐって
1騎を落馬させ、武者の首を掻き切ってそのまま馬を奪い、
浜松城へ逃げ帰ったという逸話もあるくらいです。
そんな本多重次ですが、その三方ヶ原の戦いの2年後の15
75(天正3)年の「長篠の戦い」の際に陣中から妻に宛て
た短い手紙が有名です。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
用件だけを短くわかりやすく書いたこの手紙は、武士の見本
ともされています。
当時最も恐いのは、火事でした。木造のものが多いので、す
ぐに燃え広がります。火の始末を徹底させ、仮に間違いがあ
っても被害は最小限にすること。これが「火の用心」で、大
切なことです。
「お仙」というのは、一見女性の名前のようですが、実は嫡
子の仙千代のことです。無事に育っているかが、心配だった
のでしょう。
「馬肥やせ」は、武士にとって馬は自分の分身のような大事
な存在だったので、世話を怠りなくするようにとのことです。
この手紙は現在、越前丸岡城にあります。その理由は、手紙
の中に出て来る「お仙」こと仙千代が後に成長して本多成重
を名乗り、丸岡城の第6代城主になったからです。