「観応の擾乱」の原因となった足利尊氏と足利直義の意見の相違 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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室町幕府開設に当たり、避けて通れないのが初代将軍・足利

尊氏とその弟の対立で始まった「観応の擾乱」でした。

 

元々この兄弟は、仲が良かったのです。なので戦においては

常に協力し合い、鎌倉幕府を倒すことにも成功しました。し

かし政治を進める上では、決定的な考え方の違いがあったよ

うです。

 

尊氏は、「京都に幕府を開き、朝廷とも密接に連携を取りた

い」とし、直義は「武家と朝廷は距離を取るのが良いので、

幕府の場所は鎌倉のままで良い。鎌倉でなくても関東にすべ

き」と主張したそうです。

 

またさらにそこには、お互いにしっかりとした理由と根拠が

あったようです。

 

鎌倉時代に貨幣経済は日本全体に浸透しましたが、その中心

は幕府があった鎌倉ではなく朝廷のある京都でした。従って

政治を「経済優先」に考える尊氏は、貨幣経済の中心である

京都にしたかったようです。

 

一方直義の主張する関東は、商業的にはまだ田舎で、農業が

中心でした。直義は、それで良いと考えたのです。つまりこ

の「観応の擾乱」は、「商業VS農業」の戦いでもありました。

 

この時尊氏を支えたのは細川氏で、直義を支えたのは斯波氏

と山名氏でした。戦に関しては尊氏側が勝ちましたが、直義

派が決して力を弱めたわけではありません。

 

そして細川氏VS山名氏・斯波氏といえば、「応仁の乱」の構

図が思い起こされます。そう。応仁の乱はすでにこの時から

裏で始まっていたのかもしれません。