武田家が信玄から勝頼の代へと変わり、多くの離脱者が出ま
した。その中の大物の1人に、木曽義昌がいます。
この木曽氏は木曽義仲の末裔でして、木曽義康の代に木曽谷
に侵攻してきた武田信玄に激しく抵抗しましたが、武田と和
睦し、義康の息子の木曾義昌は14歳の時に武田信玄の三女
である真理姫と結婚しました。信玄の信頼が、わかります。
しかし武田家が勝頼の代に代わり、さらに織田と徳川が力を
増すと、離反を決意します。そのことを妻の真理姫に告げる
と、彼女は反対をしました。
「どなたの恩義によって今日までがござったのですか!」
真理姫はそのように厳しくとがめましたが、義昌は
「わしの命は武田とともにあっても、明らかな負け戦に手の
者を巻き込みたくない」
と言って聞きません。
「主君を失うてもなお、のうのうと生きていたい者は家中に
はおりますまい」
真理姫の必死の説得も実らず、木曽義昌は離反してしまいま
した。
真理姫はそれに従わず、勝頼に夫の離反を告げると自身は末
子・義通と侍女を連れて御岳山中に身を隠してしまったそう
です。
その後、木曽義昌は織田軍に従って所領は安堵し、さらに信
濃筑摩郡を与えられたものの、重要なポストは得られること
なく、遠ざけられたままでした。やがて57歳で寂しく没し
ています。
一方彼を叱った妻の真理姫は、98歳までの長寿を平和に全
うしたということです。