南北朝動乱で真言立川流の僧侶・文観が率いた軍団の末路 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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文観の唱える真言立川流の教えを実践した後醍醐天皇が打倒

鎌倉幕府を果たしたのは有名ですが、その後の南北朝動乱で

は文観自身も後醍醐天皇方について兵を率い、戦っておりま

す。

 

ただし相手は、足利尊氏です。後醍醐天皇が敷いた建武の新

政が武士を冷遇したことで有力武士たちの反感をすでに買っ

ていた上に、足利尊氏が武士たちの間で絶大な人気を誇って

いただけに、有力な武士が文観につくことはありませんでし

た。

 

文観に就いたのは、当時でいう下層民たちだそうです。荒く

れた農民、フリーのアルバイト傭兵。つまりは、「私兵」た

ちでした。

 

それでも武器は使い慣れているので、それなりに戦うノウハ

ウはあったので、あっさり惨敗することは、ありません。そ

こそこに最初は良い勝負になっていたそうです。

 

しかしまとまりには欠けるし、作戦力において大きな差があ

ったので、次第に足利尊氏軍の有利さが際立ちました。そう

なると、文観の配下は私兵たちなので、変わり身が早かった

そうです。

 

何をしたかというと、武器をゆるめ、兜を脱ぎ捨てて、戦い

を放棄。兵士ではなく一般人になりすまして、戦地から引き

揚げたということです。

 

文観は尊氏の配下に捕えられ、甲斐に流されました。こうし

た彼の転落によって、真言立川流の教義は、資料ごと消され

てしまったのでした。