実はかなりノー天気で大雑把でもあった織田信長 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1580(天正8)年8月に織田信長は、本願寺を降伏させ

ます。ですが同時に、筆頭家老で本願寺攻めの佐久間信盛

を追放しているのです。

 

理由として、信盛の戦果が明智光秀や柴田勝家と羽柴秀吉ら

に比べて乏しいこと、その原因として信盛が知行が増えても

新たに家臣を召し抱えたり家臣に加増したりせず、軍事力強

化にも不熱心だったことを、挙げています。

 

まあ佐久間信盛に手抜きとさぼりがあったのは確かなようで

すが、裏を返せば、これは織田信長自身の監督不行き届きで

もありますね。

 

たとえば武田家や北条家は軍役に関して細かい規定を定め、

家臣たちの働きに目を光らせながらしっかりと発給していた

そうです。それに比べて信長は、かなりどんぶり勘定でもあ

ったようなのです。なので最低限のノルマすら与えていなか

ったため、さぼりたい人間はさぼれる状況ではあったという

ことです。

 

また戦勝で領地を増やしても、その新しい領土に家臣を配置

するまでは当然ですが、統治をその者に丸投げしていて自身

は内情を把握しないという状況もあったようです。

 

要するに家臣を信頼し過ぎていたわけで、それに意気を感じ

て素晴らしい働きと活躍をする家臣も多かったのですが、そ

の逆もいたわけです。ただその家臣たちも常に自由競争にさ

らされ、信長が勢いを増せば増すほどその競争は過熱するの

です。

 

やがてついていけなくなった家臣、ちょっとした巡り合わせ

で活躍が出来ずに知行を増やせずにいる家臣も出て来るので

す。そうした者たちは、信長を裏切ることになります。

 

前にも書きましたが信長は、明智光秀だけでなく多くの者に

裏切られています。そしてユニークなのは、信長が何故裏切

られたのか理解出来ていないようなのです。

 

松永久秀や荒木村重が謀反を起こした際に信長は使者を派遣

し、「何が不満なのか、何が望みなのか申してみよ」と呼び

かけているのです。

 

他にも、浅井長政の裏切りを耳にした時に「そんなことがあ

るはずがない」と言ってのんびりと構え、いざそれが相手が

本当に攻めて来るとわかった時には、慌てて逃げ出している

のです。

 

こうしてみると憎めない一面が見えますが、良くも悪くもボ

ンボン丸出しなところがあったのですね。