確たる物的証拠はないものの状況証拠があり過ぎるため、松
尾芭蕉が忍者で隠密だったことは既成事実に近いものとなっ
ています。
その松尾芭蕉ですが、伊賀の出身であることはわかっており
ます。伊賀といえば甲賀と並んで、代表的な忍者の里です。
伊賀忍者は百地氏を中心としてゲリラ戦法に長けており、室
町時代末期に起きた「応仁・文明の乱」でもその力をいかん
なく発揮しました。
戦国時代になると百地丹波らが織田軍を撃退したことでも、
知られます。ただ最終的には織田信長が滝川一益、丹羽長秀、
筒井順慶といった顔ぶれも加えての5万もの顔ぶれを揃えて
攻め入ったために、伊賀各地の城砦は次々と陥落しました。
ただし百地氏が途絶えたわけではなく、散らばったとされま
す。そして主には、藤堂高虎に仕えたとされています。
そして松尾芭蕉の主君が、この藤堂氏なのでした。織田信長
や豊臣秀吉らとは対立した伊賀忍者ですが、徳川家康の伊賀
越えを助けたことで家康には大いに取り立てられたのです。
従って江戸時代に入ると伊賀忍者たちも大いに息を吹き返し
たように活動をするのですが、百地氏もその中に入ります。
そして松尾芭蕉も、藤堂氏に仕えた百地氏の末裔という説が
強いようです。
百地氏といえば伝説の忍者「百地三太夫」がいますが、上記
した「百地丹波」が百地三太夫と同一人物ではないかと見る
向きも多いのです。従って松尾芭蕉は、かなり名門の忍者で
ある確率が高いのです。だからこそ、隠密として重要な役割
を果たしたのでしょう。