「桶狭間の戦い」の古戦場が2つあることの意味 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1560年5月19日、「桶狭間の戦い」が行われ、今川義

元の軍が織田信長の軍に敗れて義元は討ち死にしています。

この戦いの古戦場は、主には現在の愛知県豊明市栄町にあり、

石碑も建っています。

 

しかし古戦場はもう1つあり、それは名古屋市緑区の「桶狭

間古戦場公園」という場所で、こちらにも石碑は建っていま

す。

 

これ、双方が自分たちの正当性を主張し合って譲らない、な

んてことは全くありません。何故なら、いずれも本当に古戦

場だったからです。

 

合戦当日、沓掛城を出発した今川軍は大高城を目指して進ん

でいる途中の桶狭間山で昼食を取っている最中、織田軍の急

襲を受けました。この話は、事実なのでしょう。

 

不意を突かれた今川軍は、バラバラになったのです。その場

で戦わざるを得なかった者たちと、ひとまず退散して兵を立

て直そうとする者たちと。

 

そして退散した者たちも、来た道を戻って沓掛城の方へ向か

った連中とこれから向かう大高城に向かった連中とに、分か

れました。2つに分かれた今川軍の残党たちは、それぞれ織

田軍との戦いを続けます。従って古戦場が2つあるという状

況が、生まれたのでした。

 

ただし大将の今川義元が討ち死にしたという窮地はどうにも

ならず、織田軍の勝利は不動のものとなったのです。