源義仲が主に源でなく「木曽義仲」と呼ばれる明確な理由 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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「木曽義仲」という人物はかなり有名な武将ですが、正確に

は「源義仲」です。「源氏」の武将です。

 

なのにあまりその「源氏姓」で語られることが少なく、「木

曾義仲」が御馴染みになっているのは、同じ「源氏」の源頼

朝・義経兄弟を宿敵とし、戦って討ち死にしているからです。

 

木曽義仲の父は、源頼朝ら兄弟の長兄と土地問題で争い、殺

されています。その時義仲はまだ2歳で物心つかず、遊女だ

った生母に抱かれて木曽谷に逃れました。従って源氏の血筋

であることに思い入れは少なく、まして源頼朝は亡父を殺し

た男の弟ということもあって、最初から相容れないものがあ

ったようです。むしろ源氏という血筋より、木曽という土地

柄への思い入れの方が、強かったようです。

 

その木曽義仲も、本家平氏と戦ってはいます。ただし頼朝ら

に加勢したのでなく、北陸道の平氏が所有する穀倉地帯を強

奪することが目的でした。頼朝が平清盛と戦っているのと時

をほぼ同じくしていたので、お互いにとって都合の良い戦に

なってはいましたが、示し合わせたわけでもないようです。

 

それどころか、それぞれが独自の思惑で平氏との戦いに勝利

した後は、ぶつかり合ったようです。というか主に頼朝の方

が、力を強大化している源義仲を、警戒したのでした。

 

そこで頼朝は後白河法皇に近づき、「十月宣旨」というのを

引き出したのです。1183年のことでした。

「東海・東山・北陸三道の国領は、元の如く領地すべし」

 

源義仲にすれば、せっかく奪い取った北陸道の支配権を手放

せと言っているようなものなので、怒らないわけがありませ

ん。

 

怒り狂った木曽義仲は、暴れん坊の本性を発揮します。法皇

の御所を襲い、護衛をことごとく斬り殺し、天台座主や公卿

も手にかけて、殺した者の首を全て五条河原に晒すという過

激な行動に出ました。

 

後白河法皇がそれに対して取った作戦は、木曽義仲を征夷大

将軍に任じることです。そうです。源義仲は、源頼朝より先

に、将軍の座に就いていたのでした。

 

義仲は、当然の如く、喜びました。しかしこれによって油断

し、骨抜きになったようです。こうした作戦を、「位討ち」

と呼ぶのだそうですが、効果的で、油断した義仲は攻めて来

た鎌倉軍に対処出来ず、敗死したということです。

 

こうした経緯があるだけに源義仲が「源氏」を良く思うはず

もないだろうという見方から、「源義仲」ではなく「木曽義

仲」と呼ぶことが多いのです。